『GOOD DAY』
作詞:坂井泉水 作曲:綿貫正顕 編曲:池田大介
初収録:27thシングル(1998年12月2日発売)
タイアップ:ビューティーラボ「ナチュラルカラー」CMソング
歌詞(CD&DVD06)
もし翼があったなら
迷わず forgive me, kiss me, and hold me tight
あなたの元へと

失った歳月(つきひ)や愛を連れて しがらみ全部 脱ぎ捨てて

Good day, and why don’t you leave me alone
諦めるよりも ああ 優しくなりたい
Good-bye, and somebody tell me why
泣くから悲しくなるんだと

息がつまりそうなこの都会(まち)
「今日 この生活にピリオドをうつ決心をした」と
今度いつ逢えるの?と 聞けずに
言葉はいつも 心とウラハラ

Good day, and why don’t you leave me alone
諦めるよりも ああ 優しくなりたい
Good-bye, and somebody tell me why
泣くから悲しくなるんだと

もしあなたと このままいれば
きっと後悔する日がくる

Good day, and why don’t you leave me alone
諦めるよりも ああ 優しくなりたい
Good day 自分の弱さ忘れたいから
人はまた恋に落ちてゆく

Good day, and why don’t you leave me alone
雨の中を どこまでも歩いた reason to cry

Good-bye. walk away, and don’t you ask me why
サヨナラだけが 二人に残された言葉…

 

どこかに疑問が残るような詞
本作品は、イメージが捉えにくい。恋愛がテーマであるが、主人公と相手との関係がよく見えない。相手と一緒になりたいのか、別れたいのかあいまいである。
作者は作詞について次の様に述べている。
「自分なりにいろんなイメージをふくらませるのが好きなんです。例えば映画だったら結末がはっきりしていなくて、心に余韻が残るような。見終わったあとに、ハテナ?がいっぱいつくのが好きですね。だから、私が詞を書くときも、"今日は八百屋に行って野菜を買ったわ"っていう現実的なものじゃなくて(笑)、どこかに疑問が残るような詞を書いていきたいんです」
これは一般論として述べたものでありその程度は異なるが、作者の作品全般に見られる特徴である。特に本作品はそれが色濃く表れており、合理的に解釈しようとすること自体が意味を持たないと思われる。

むしろ、言葉一語一語の意味によってではなく、それらを組み合わせることで立ち上がってくるイメージや雰囲気で、思想や情感を伝えようとするフランスの象徴詩のようなものであろう。
あるいは、萩原朔太郎の詩についての吉本隆明のコメントが参考になると思われる。
萩原朔太郎の詩は、二、三行で一つのモチーフが切れて、すぐ次の行から別のモチーフが始まるという書き方になっている。そういう書き方をしても詩の連続性が失われていないと思えるようになったのは、朔太郎の『月に吠える』が最初だった。
 それ以前は、典型的には島崎藤村のように、第一連から第二連、第三連へとモチーフの区切りと流れが一目でわかるようになっている。朔太郎がそれを壊して、どう書いても詩人自身が自分の中で流れが続いていればいいはずだというふうに変わっていった。このこともまた近代詩から現代詩への転換を画するものだった。」
確かに演歌をはじめとしていわゆる歌謡曲やJPOPの歌詞はほとんどが、「第一連から第二連、第三連へとモチーフの区切りと流れが一目でわかるようになっている」のと比べてみるとその違いは明らかである。

 

諦めるよりも優しくなりたい
その中で、本作品にはひとつ重要なフレーズが含まれている。それは、サビの部分の
“諦めるよりも優しくなりたい”で、これについて、作者は次の様に言っている。

「“諦めるよりも ああ 優しくなりたい”というフレーズは、諦めるというアクションは誰にでも出来て簡単だけど、もう一回冷静になって問題を乗り越えてみよう、そしたらきっと今よりも良い日「GOOD DAY」が待ってるんだっていう気持ちがあって、それは私自身にも言っていたりするんですけどね。この詞はすごく女性的な考えで書きましたね。」

あきらめる、とは一般的には様々な思いや考え、主張等自分の考えを貫こうとしても内外の状況により断念しなければならない場合に使われ、ネガティブなイメージがある。
特に個性を尊重し、自己表現や自己主張を是とする現代においては、あきらめることを否定し、あきらめない、すなわち自己の考えを貫こうとすることがポジティブであり、是とする考えが強くなってきた。

しかし、自分があきらめないことが、他者の犠牲の上に成り立つとしたらどうだろうか。
『君がいたから』(1996年7月発売)の中に、
“ドアを開けて中に入ろうとしても 入口が見つからなくて 誰かを傷つけた…”
というフレーズがある。誰かを傷つけなければ自分の意志を貫徹することはできない。あきらめることを否定し、あきらめない、ことを貫こうとする限りそれを避けることはできない。

これに対し、作者は、“諦めるよりも 優しくなりたい” と、あきらめることを否定するのではなく、あきらめることを受け入れてその先を見ているようである。

あきらめる、とはもとは仏教語で “明らめる”、つまり自分が出会っている『無常の現実』を明らかに観る、という意味である。
良寛の言葉に
「災難に逢時節には災難に逢がよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」
と言うのがある。これは、「悲しいのは仕方がないが、まず現実を受け止めよ。その上で、なお前向きに生きていく時に初めて哀しみを乗り越える力が出てくる」、ということを言っている。

作者の「もう一回冷静になって問題を乗り越えてみよう、そしたらきっと今よりも良い日「GOOD DAY」が待ってるんだっていう気持」もまさに同じであるように思われる。

優しい、とは他人の身になって考える、情け深いこと、であり、自分や自分の考えだけに捉われるのではない。

作家の太宰治は知人に送った手紙で、「優しさ」とは、人偏に憂うると書くように、人のわびしさ、つらい事に敏感なこととし、“そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります”と記している。

やさしさは孤立して存在するのではなく、人と人との関係において存在する。自分自身に向かい合うことでもある。人はそれを愛と呼んでいる。

「愛とは、誰かのおかげで自分を愛せるようになること」 (平野啓一郎

「愛は人をして孤立と分離の感覚を克服せしめるが、しかも、人をしてその人自身となり、その本来の姿を保持するようにさせるものである。」(「愛するということ」 エーリッヒ・フロム)

優しくなりたい、とはまさに、そういう人に私はなりたい、ということであると思われる。

以上

『少女の頃に戻ったみたいに』
作詞:坂井泉水 作曲:大野愛果 編曲:池田大介
初収録:25thシングル「運命のルーレット廻してカップリング曲(1998年9月17日発売)
タイアップ:「名探偵コナン14番目の標的(ターゲット)」主題歌
歌詞(CD&DVD09)
くり返し見る夢に
目が覚めてみると
胸の動悸が速いことに気づく

いつも白線 踏みはずして
走る私がいる
なぜ? 理由(わけ)もないのに声をあげて泣きたくなる

幼い少女の頃に戻ったみたいに
やさしく 髪を撫でてくれる
そんな温かい手をいつも待っていた
あなただけは 私を やさしい人にしてくれる
とても 大好きよ とても 大好きよ

どんなに情熱 かたむけても
わかりあえない人もいる
そんな日は 心が曇ってしまうわ

恋は規則正しい リズムを刻まない
心地良いソファーで また 眠ってしまった

懐かしい少女の頃に戻ったみたいに
やさしく 髪を撫でてくれる
そんな温かい手をいつも待っていた
あなただけは 私を そっと包み込んでくれる
とても 愛してる とても愛してる

あなただけは 私を そっと包み込んでくれる
とても 愛してる 赤いハートで

loving you あなたと・・・

 

 

 

 

 


1)作者の言葉
作者は本作品について、次のように語っている。
「ここ最近のZARDでは珍しい女性作家の曲で、そう、不思議と幼い頃の自分が思い出されて、一気に詞が出来たんですよ。」
「”夢物語“のような”室内“をテーマに描いた」
「一番好きなフレーズは“いつも白線踏みはずして 走る私がいる”」

女性作家とはこのとき初めてZARDに曲を提供することになった大野愛果でこれ以降彼女の曲は多く採用されることになる。
これらを手がかりに本作品について考えて見たい。


2)シンプルな表現
一般に作者の作品の特徴の一つとして、五感のような体感を通して感じる外部環境、時間や空間の感覚、様々な語法(比喩、音韻、倒置法、等)や文字表現等を駆使してあるイメージを伝えようとすることがあげられるが、本作品はそのような手法は見られない。
主人公は、部屋の中にいて夢を見たり、物思いにふけったりするが、同じように室内を描いた作品として、

「サヨナラ言えなくて」(1992年9月発売)では、
“窓ににじむ city lights ぼんやり雨の音を楽しんでる
長すぎる夜の過ごし方 上手(うま)くなったみたい“

と視覚や聴覚という感覚、時間の経過などが描写され、

「窓の外はモノクローム」(2001年2月発売)では、
“途切れる言葉 いくつも埋めるように
はしゃいだ夜更けの部屋 窓の外はモノクロ―ム“

と部屋と外の情景が描写されており、それが主人公の心象風景を表している。
これに対し、本作品は、そのような描写はなく、作者の関心は別のところにあるように思われる。
それは何か。


3)くり返し見る夢
くり返し見る夢がどのような内容かは語られていないが、

「瞳閉じて」(作曲:大野愛果 2003年7月発売)では夢について
“心臓(ココロ)を 強く叩いたり 溺れる楊に 涙を流したい
夢の中で よく見知らぬ街を さまよっているの“

とあり、本作品の夢と通じているものがあるように思われる。

たった一人で見知らぬ街をさ迷っている。孤独や不安の中で、道をみつけようと走りだすが、それが知らずに白線を踏みはずし社会のルールからはずれたり、他者や自己を傷つけてしまっていることに気付く。それでもいつもどこかへ走り出そうとする。目が覚めてみると胸の動悸が速いことに気づく。そんなとき声を上げて泣きたくなる
夢の中の出来事が不安な心を象徴している。

 

4)わかりあえない人
“どんなに情熱 かたむけても わかりあえない人もいる
そんな日は 心が曇ってしまうわ“

わかりあえないからといって、憎しみやあきらめというネガティブな感情に走ったり、他者に対して攻撃的な行動をとることは、他者を傷つけ、自己を傷つけるだけである。しかし出口はみつからない。主人公は深い悲しみに沈んでいる。

“恋は規則正しい リズムを刻まない
心地良いソファーで また 眠ってしまった“

わかりあえない世界では、恋は、予定調和的には進まない。

『Don't you see!』(1997年1月発売)では、
“無理をして 疲れて 青ざめた恋は予期せぬ出来事”
といっている。
そのような恋に疲れてしまう。恋という他者との関係が悲しみを象徴している。


5)髪をなでるとは

“幼い少女の頃に戻ったみたいに やさしく 髪を撫でてくれる
そんな温かい手をいつも待っていた“

昔から、女性にとって髪に男の手が触れることは、恋の表現であり心の震える行為だった。

「朝寝髪吾(われ)は梳(けづ)らじ愛(うるわ)しき君が手枕(たまくら)触りてしものを」(万葉集
「黒髪の乱れもしらずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき」(和泉式部 後拾遺集

さらに近代になると、女性自身が自立してその美しさを自覚するようになる。
「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」(与謝野晶子 みだれ髪)

本作品は、少女時代の想い出であること、名探偵コナンという比較的若い世代を対象とするアニメの主題曲であること等もあり、伝統的な「髪を撫でる」というイメージとは異なり、あまり男女関係を連想させない中性的な表現になっている。


6)愛による救い

“あなただけは 私を やさしい人にしてくれる
とても 大好きよ とても 大好きよ“

あなたを想うことによって自分は変わっていく。

揺れる想い』(1993年5月発売)
“運命の出逢い 確かね こんなに 自分が 変わってくなんて”

『来年の夏も』(1994年6月発売)
“あなたの愛のレッスンで 弱い自分も好きになれたの”

わかりあえない人“も”いる、ということはわかりあえない人は複数かつ不特定であることを示唆しているが、私をやさしい人にしてくれるのは、あなた”だけ“たった一人である。
さりげない助詞の使い方からあなたという人が特別な存在であることが浮かび上がってくる。

ドストエフスキーは、他者とどれほど議論しても最後までわかりあえない世界を描いた。
多くの人が傷つき、倒れて行く世界。それは彼の生きた帝政ロシアの世界、長い19世紀の世界、のみでなく、短い20世紀、さらに21世紀の世界でもある。
しかし彼は最後に「愛による救い」を見出している。

ドストエフスキーの影響を大きく受けた萩原朔太郎は、孤独の世界からの救いを愛の中に見出した
「人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。
 とはいえ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。
 我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人みんな異なっている。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもっているのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。」(詩集「月に吠える」序文)

くりかえし見る夢がどのようなものか、どのような情熱を誰に伝えようとしているのか、あなたとはだれか、
具体的なことではなく、「一気に詞が出来た」という作者の言葉通り作者の心の底にある想いをのべたものであろう。
孤独な世界、わかりあえない世界からの救いが愛であるということを。


以上

運命のルーレット廻して
作詞:坂井泉水 作曲:栗林誠一郎 編曲:池田大介
初収録:25thシングル(1998年9月17日発売)
タイアップ:読売TV・日本TV系アニメ「名探偵コナン」オープニングテーマ
歌詞(CD&DVD08)
運命のルーレット廻して
ずっと 君を見ていた

何故なの こんなに 幸せなのに
水平線を見ると 哀しくなる
あの頃の自分を遠くで見ている そんな感じ

運命のルーレット廻して
アレコレ深く考えるのは Mystery
ほら 運命の人はそこにいる
ずっと 君を見ていた

星空を見上げて 笑顔(ウインク)ひとつで
この高い所からでも 飛べそうじゃん
スピード上げ 望遠鏡を 覗いたら
未来が見えるよ

運命のルーレット廻して
何処に行けば 想い出に会える?
青い地球の ちっぽけな二人は
今も 進化しつづける


運命のルーレット廻して
旅立つ時の翼は bravely
ほらどんな時も 幸運は待ってる
ずっと 君を見ていた


ずっと 君を見ていた

 

 

全体のイメージがポジティブ
本作品は全体の特徴として、ポジティブな表現が多い。それらの言葉やフレーズが作品の中で和音のように相互に響き合い、過去から未来へと向かうイメージを創り上げている。

作者は本作品について、
「曲を聴いた時に映画「時計じかけのオレンジ」が思い浮かびました。“運命のルーレット廻して”という言葉には、ネガティブな意味じゃなく、もう、イチかバチかの賭けみたいな、ね。人生どうなっていくか楽しみでもあり、不安でもあり……、そういう意味を込めています。
 歌詞で一番気に入っているフレーズは、“この高い所からでも飛べそうじゃん”という所かな……。」
と語っている。


時間と空間が一体化した広大な世界

“あの頃の自分を遠くで見ている そんな感じ”
“スピード上げ 望遠鏡を 覗いたら未来が見えるよ”
“何処に行けば 想い出に会える?

“あの頃の自分”や“想い出”は過去のある時期についての記憶であり、それが“遠くで見ている”や“何処”と空間表現と一体となっている。
また、望遠鏡を覗いて見えるのは遠方であり、そこに未来が見える、とここでは空間と時間が一体となって表現されている。遠方と未来はともに奥という言葉で表されることを考えると、未来(=奥=遠方)が見える、という発想の連鎖から来ているように思え、時空間が一体となった広大な世界のイメージが浮かび上がる。


映像も広く大きい
“水平線”から“星空”へと視線は移り、さらに一転して、遥か無限の宇宙から“青い地球”を見つめる。あたかもズームアウトするかのような映像のスケールは大きい。
地球を見つめる視線は、世阿弥の言う「離見の見」(自らを観客であるかのように見ている役者の視線)のようでもあり、レヴィ=ストロースの言う、自他の文化を遥か遠くから見つめる「はるかなる視線」のようでもある。

色彩的には、水平線の青、漆黒の夜空の中に星々がきらめき、その無限の宇宙を背景とした青い地球、とコントラストが鮮やかである。


運命のルーレットを廻すのは?
詞の中で登場する人物は“君”、“運命の人”、“自分”、“二人”である。
“自分”=私として見ると、“二人”は私と君となる。
私を離れて見れば私は君という呼びかけの対象ともなる。君は君でもあり私でもある。

レヴィ=ストロースは、日本語の特性として、「日本語の構造は一般性から出発して、特殊性へと進む。個人をもっとも一般的な帰属から、もっとも特殊なものにまで順次降りていくことによって定義する。」と語り、さらにこの順次降りていく過程や結果は必ずしも一義的には定めることはできない、と言っている。

本作品においても、君が、誰を指すかは一義的に定めることはできず、読む人や聴く人の判断にゆだねられることになり、それだけ想像の世界が拡がる。

運命の人とは誰か、運命のルーレットを廻しているのは誰か、も同じである。
二人は互いに出逢いに至るまでに歩んで来た道が運命であると感じている。それは、巡り合ったときに相手と共に生きてゆくという未来が開かれたことを強く感じたからである。


過去から未来へ

“何処に行けば 想い出に会える?”
“あの頃の自分を遠くで見ている そんな感じ”

「嘗て愛した場所に再び出かけるのは空しいことである。そんな場所には二度と会えないだろう。かつて愛した場所、すなわち記憶の場所は存在していない、時の中に位置しているのであり、二度と逢えないのである。子供の頃大切に思っていた場所、それは果てない闇の中に消えている」(アンドレ・モーロワ)。

“水平線を見ると 哀しくなる”

子供の頃大切に思っていた場所が果てない闇の中に消えていることを知っているからである。

“何故なの こんなに 幸せなのに”
“どんな時も 幸運は待ってる”
“ずっと 君を見ていた”

しかし今、運命の人に出会えた幸せは何物にも代えがたい。


エラン・ヴィタル(生の跳躍)

“スピード上げ 望遠鏡を 覗いたら未来が見えるよ”
“青い地球の ちっぽけな二人は 今も 進化しつづける”

スピードを上げるとは、速度を変化させる、すなわち加速度をつけることであり、それによってはじめて未来が見える。止まったままでは、何も見えない。「Oh my love」(1994年6月発売)では、“ほら 加速度つけて あなたを好きになる”とある。

ベルクソンは、進化とは、根源的に創造的な過程であり、「意識的存在にとって存在することは変化することであり、変化することは成熟することであり、成熟することは自己を永遠に創造し続けることである」と述べている。

“この高い所からでも 飛べそうじゃん”
“旅立つ時の翼は bravely”

石川啄木は、
 「高きより飛びおりるごとき心もて この一生を 終るすべなきか」(一握の砂)
と歌っている。作者は啄木が好きだと言っているので、この歌の影響があると思われる。
またベルクソンの言う「エラン・ヴィタル(生の跳躍)」につながってゆくように思われる。


最後に

作者は、明日や未来という言葉について、
「この言葉もよく詩に使いますね。私のココロの中のネガティブなパーツが、この明るく響く言葉を渇望するのかもしれない。」と言っている。

詩人の萩原朔太郎は「私は何時も明るい方へ明るい方へと手をのばして悶へながら却って益々暗い谷間へ落ちて行くのである」と書いている。「竹」という詩では、

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもと竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

と書いている。
詩人は「暗い谷間へ落ちて行く」心から「明るい方へ手をのば」そうと、かたい地面から青空に向かってまっしぐらに生える竹からイメージを得て詩を創り、作者は「ココロの中のネガティブなパーツ」が「明るく響く言葉を渇望」しているゆえに本作品を創ったといえる。

最後になるが、詞に現れる英語は

“アレコレ深く考えるのは Mystery”
“旅立つ時の翼は bravely”

と、(i) で脚韻を踏んでいる。「私は言葉を、詞を本当に大切にしてきました」という作者が、このような細かい所にも丁寧に言葉を選んでいることがわかる。

 

以上

『Don't you see!』
作詞:坂井泉水 作曲:栗林誠一郎 編曲:葉山たけし
初収録:19thシングル(1997年1月6日発売)
タイアップ:フジTV系アニメ「ドラゴンボールGT」エンディングテーマ
歌詞(CD&DVD05)
友達に手紙を書くときみたいに
スラスラ言葉が出てくればいいのに
もう少しお互いを知り合うには 時間が欲しい
裏切らないのは 家族だけなんて
寂しすぎるよ Love is asking to be loved
信じる事を止めてしまえば 楽になるなってわかってるけど

Don’t you see! 願っても祈っても 奇跡 思い出
        少しは気にかけて
Don’t you see! ちょっと醒めたふりをするクセは
        傷つくのが怖いから

TAXI乗り場で 待ってた時の沈黙は
たった5分なのに ものすごく長く感じた
無理をして 疲れて 青ざめた恋は予期せぬ出来事

Don’t you see!  小さなケンカで
        負けず嫌いな二人だから ホッとしたの
Don’t you see! いろんな人を見るより
        ずっと同じあなたを見ていたい

Don’t you see! I’ll never worry, tonight
I’ll lay me down, tonight
You know, I do it for you.

Don’t you see!  生まれた街の匂い
        暮れかかる街路樹を二人歩けば
Don’t you see! 世界中の誰もが どんなに急いでも
        私をつかまえていて


本作品は、主人公の恋、相手に次第に心を魅かれてゆくさまが描かれている。その様子を様々な方法
で表している。

1)修辞法
<韻>
冒頭の部分の各フレーズの最後は に(ni)、に(ni)、い(i)といずれもi音で終わっている。
(a)友達に手紙を書くときみたいに/
(b)スラスラ言葉が出てくればいいのに/
(c)もう少しお互いを知り合うには時間が欲しい/

アルファベット表示にしてiを大文字Iで表わしてみる。
(a)tomodachI nI tegamI wo kakutokI mItaInI
(b)surasura kotoba ga detekureba IInonI
(c)mousukoshI otagaI wo shIrIaunIwa jIkan ga hoshII

とくに(a)(b)でi音の出現率は高いことがわかる。すなわち、冒頭にi音による脚韻を含むリズムが意識されており、それによって聴く人を一気に曲の中に引き入れる導入効果をあげている。

このような工夫は、古くから知られている。たとえば万葉集には下記の歌がある。
“淡海(あふみ)の海 夕波千鳥汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ”(柿本人麿)
“aumInoumI yuunamI chIdorI naganakeba kokoromo shInonI InIshIe omohoyu”
となっており、淡海の海夕波千鳥、と最初にi音の脚韻で畳み掛けるようにして一気に歌の世界に引き入れる効果を出している。

<倒置法>
“願っても祈っても/奇跡 思い出”は、 
“奇跡や思い出を/願っても祈っても”であり、

“小さなケンカで/負けず嫌いな二人だから/ホッとしたの”は、
“負けず嫌いの二人だから/小さなケンカで/ホッとしたの”である。

このように文頭に強調したい語句を持ってきて効果をあげている。

<反語>
“信じることをやめてしまえば楽になる”は、
これは、一般的には「信じれば救われる(すなわち楽になる)」となる。想いが伝わらないもどかしさについて自分自身を偽っている心理を表しているのかもしれない。

<比喩>
“青ざめた恋”
これも想いがすれちがうもどかしい気持ちを表している。
これは、米国の詩人エミリ・ディキンスンの、「石英の満足」(”Quartz contentment”)「鉛の時間」(”The Hour of Lead ”)「(はえの)暗うつなうなる音」(“Blue Buzz”)、のような比喩を思い起こさせるる。

このような<倒置法><反語><比喩>等の技法を織り込むことにより、散文的な平板さが打ち消され、聞く側に一瞬おやっ、と思わせ、注意を惹きつけている。


2)エンディングとオープニング
本作品は、TVアニメ「ドラゴンボールGT」のエンディングテーマとして作られたもので、このアニメのオープニングテーマも同じ作者の『DAN DAN心魅かれてく』である。いずれもアニメのストーリーに沿って恋愛や友情をテーマとしているが、比べて見ると異なった視点で描かれていることがわかる。

『DAN DAN心魅かれてく』のほうは、

“果てない暗闇(やみ)から飛び出そう”
“愛と勇気と誇りを持って闘うよ”
“何かあると一番(すぐ)に 君に電話したくなる”
“海の彼方へ 飛び出そうよ”

等積極的、行動的な表現が多い。
また“光と影の Winding Road”、“宇宙(ほし)”、“永遠”など心象風景の象徴として外部の大きな時間と空間の世界へ目を向けており、オープニングテーマ曲とし動的なイメージを追求している。

一方、『Don't you see!』では、

“友達に手紙を書くときみたいに スラスラ言葉が出てくればいいのに”

等冒頭から内省的な言葉が並んでいる。
『DANDAN心魅かれてく』にある、“果てない暗闇(やみ)”、“少しだけ 振り向きたくなるような時”等の表現がさらに強調されている。
また、手紙、家族、TAXI乗り場、小さなケンカ、生まれた街、など身近な世界を描いており、その点でも対照的である。

また、同じような状況でも、
『DANDAN心魅かれてく』では、“二人の会話が 車の音にはばまれて通りに舞うよ” と聴覚による街のざわめきが強調されているが、
『Don't you see!』では、“TAXI乗り場で 待ってた時の沈黙” と内面の心理状態が強調されている。

一方、
“ZEN ZEN 気のないフリ” は “ちょっと醒めたふり”
また
“結局 君のことだけ見ていた” は “ずっと同じあなたを見ていたい”
のように、同じような心理状態を表わしている場合もある。

このように 2つの作品は恋愛あるいは友情という1つのテーマを異なる面から表現している


3)生まれた街の匂い
『DAN DAN心魅かれてく』で述べたように、
「未知にして未踏の風景を包んでいないような顔は一つとして存在せず、愛したものの顔とか夢見た顔で満ちていない風景、来るべき、またはもう過ぎ去った顔を繰り広げない風景など存在しない」とフランスの二人の哲学者ドゥルーズガタリは言っている。

『DAN DAN心魅かれてく』にある “君と出会ったとき”思い出した“子供の頃大切に想っていた景色(ばしょ)”は、
『Don't you see!』の “生まれた街の匂い暮れかかる街路樹”ではないだろうか。
嗅覚、視覚、聴覚などのさまざまな感覚から懐かしい故郷の街の記憶がよみがえる。

フランスの詩人ボードレールが、コレスポンダンス(Correspondance、万物照応)という詩で、嗅覚、視覚、聴覚などのさまざまな感覚が深いところでとけあっていることを言っているのと同じような感覚であろう。

また本来のやまと言葉では、「ニオイという言葉は、色彩あるいは光沢について我々の視覚を強く刺激する場合に言ったので、花がニオウとは、香りを放つというよりはむしろ、はでな色、大変美しく目に映ずる色という意味で、ニオフといったのである。」と広辞苑の著者新村出のいう通り、街の匂いとは街の懐かしい景色でありそれは暮れかかる街路樹で象徴されている。
『星の輝きよ』(2005年発売)で、“出逢った瞬間に 同じ臭(ひかり)を感じた”とあるのも同じである。

それらの感覚が蘇る懐かしい想い、その想いを大切にしたいという気持ちは再び君に向かい、
“いろんな人を見るよりずっと同じあなたを見ていたい”という想いに通じる。

そのあなたに、
“世界中の誰もが どんなに急いでも 私をつかまえていて”
と願っている。
石川啄木は、
「人がみな 同じ方角に向いて行く。それを横より見てゐる心。」
と詠った。啄木は一人だが、主人公はあなたと二人で見ていたい、と願っている。


4)タイトルに込められた意味
『DAN DAN心魅かれてく』は日本語のオノマトペをアルファベットで表わし、『Don't you see!』は英語そのものである。
いずれもタイトルがDで始まるのは同じテーマを表していることを示ているのではないだろうか。このためわざわざ英語の表記をつかっているとも考えられる。作者は第一作のGoodをはじめタイトルに英語を使うことも多いので、その点ではあまり抵抗がなかったのであろう。

『DANDAN心魅かれて行く』気持ちを、“わかってほしい”(Don’t you see )とみると意味の上でもつながっている。
“Don’t you see”は日本語では表せないいろいろなニュアンスを含む表現であり、それ伝えるためとも考えられる。

アルファベット表示は海外へアニメが進出する場合に日本語を知らない視聴者へ、アピールするという点もあると思われる。
この2つの作品は、それぞれ完成された作品であるとともに、2つ並べてみると、お互いに響きあってあらたな輝きを放つように思われる。

以上

 

『来年の夏も』
作詞:坂井泉水 作曲:栗林誠一郎 編曲:明石昌夫
初収録:5thアルバム「OH MY LOVE」(1994年6月4日発売)
タイアップ:
歌詞((アルバム盤)
同じ血液型同士って
うまくいかないと いうけど
私達例外ね 今も
2年前の気持と 変わらない
恋の予感は 土曜日の映画館
勇気を出してよかった…

来年の夏も となりにいるのが
どうか あなたでありますように

知り合う前の私は
“強い女”の看板 背負ってた
あなたの愛のレッスンで
弱い自分も好きになれたの
ラベンダーの匂いに 心ときめく
昨日よりもっと愛しい

来年の夏も となりにいるのが
どうか 私でありますように

時間旅行をしているみたいに
景色だけが変わってゆく

来年の夏の 二人の記念日
出合った場所でお祝いしましょう
これからもずっと となりにいるのが
どうか あなたでありますように

 

土曜日の映画館で見たものは?

“知り合う前の私は“強い女”の看板背負ってた/あなたの愛のレッスンで、弱い自分も好きになれたの“
唐突にあらわれる、強い女、愛のレッスン、のような刺激的な言葉はについて考えて見たい。

シェークスピアの初期(1594年頃)の喜劇に「じゃじゃ馬ならし」(The Taming of the Shrew)がある。これはイタリアの小都市パドヴァに住む性格が激しく強い「じゃじゃ馬」とよばれる若い娘カタリーナがヒロインの劇である。
彼女の妹ビアンカは美人で何人も求婚者がいるがカタリーナには一人もいない。このため父親は彼女に莫大な持参金を付けて先に結婚させようとしている。そこへ運よくペトルーキオという青年が現れ、持参金目当てに結婚し、紆余曲折の大騒ぎの末彼女を従順な女性に馴らす、という劇である。

女性を馴らすということで当時から女性蔑視の劇であると言われることが多い。しか中には「なるほどペトルーキオはじゃじゃ馬を馴らさねばならない。事実、甚だ過酷にそれをやってのける。だが彼は結構カタリーナのためを思っており、その言葉にもどこか控えめな優しさが残っている。確かに抑制が働いており、皮肉な言葉づかいのうちに、かえって情のこまかい優しさを感じさせる。すぐ分かることだが、彼は彼女にありとあらゆる試練を課するにもかかわらず、気位の高い女にとっては心を傷つける蔑みの言葉だけは一度も使っていないのである。」という評論もある。
カタリーナが飢えているのに、ペトルーキオだけが食事をしているというような場面はこの芝居にはない。彼自身も眠らず、断食して、カタリーナと同じ苦労をする。また暴力をふるったり酒や女や賭博に身を持ち崩すいうこともない。美人の妹を溺愛する父や世間に傷ついていたカタリーナの心は彼の献身的な努力に心を開き、その愛を受け容れて行く。

平野啓一郎氏は講演で、「自分を愛するというのは、誰かのおかげで自分を愛する、他者を経由して自分のことを好きになれるということなのではないでしょうか。おそらくそこが、自分を愛するという入り口なんだと思います。そしてだからこそ、やっぱり我々は他者を愛するのです。かけがえのない存在として。」と述べている。

カタリーナは、ペトルーキオの献身的な愛によって、弱い自分に気づき、そういう自分を好きになり、、そしてペトルーキオを愛するようになった。

“同じ血液型同士って うまくいかないというけど/私たち例外ね 今も 2年まえの気持ちと変わらない”

この言葉は、はたからみると、愛が成立しないような様々な状況でも、二人にとってはお互いにかけがえのない存在になることができる、ということを表現しているようである。

じゃじゃ馬ならし』は何度も映画、オペラ、バレエ、ミュージカルなどに翻案されその音楽と共にヒットしている。ミュージカルでは「キス・ミー・ケイト」というタイトルで(1948年初演)でヒットし、映画で最も有名なのは、エリザベス・テイラーリチャード・バートンが主演した1967年の作品である

作者がシェークスピアや映画に興味を持っていると述べている。土曜日の映画館、は古い映画を上映する「名画座」で、そこで二人は「キス・ミー・ケイト」を見たという想定から前述のフレーズが出て来たということは十分考えられるのではないだろうか。


あなたとわたし

“来年の夏も となりにいるのが/どうか あなたでありますように”
“来年の夏も となりにいるのが/どうか 私でありますように”

繰り返されるこのフレーズは、(私)のとなりにいるあなた、と(あなた)のとなりにいる私、すなわち2年前から続いている関係が来年の夏も続いているようにと祈っている。
一見すると、流れに流されているような表現で、自分の意志や行動力が感じられないとも思われる。

本作品は難病で入院・治療中だった女性ファンと夫との話を元にこの女性の気持ちになって書かれたものと言われている。この部分はとくにそれが反映されているようであり、運命に二人の絆を愛を委ねざるかのような切ない表現になっている。

しかし、人は弱いかもしれないが決して、単に運命に翻弄されるだけではない。
「人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。」(三木清 人生論ノート)
まさに二人は困難な状況の中で運命を超えて来年の夏に向かって、希望を持って進もうとしている。

本作品について作者は、2004年のライブで「私は言葉を、詞を本当に大切にしてきました。それが音楽で伝わればいいなと願っています。そんな私の思いのつまった曲を聞いてください」と言って歌っている。大切にしてきた言葉や詞の根底にあるのは、希望である。さらにその根底にはシェークスピアの劇とも通じる愛である。

1966年に来日したコルトレーンは記者会見で音楽を通じて表現するもので、何を伝えたいのか?と聞かれ、こう答えた。「“愛(LOVE)”と“努力(Strive)”です。愛が中心になります。愛は宇宙を支えているのでこの言葉がもっとも適当だと思います。」

コルトレーンと作者には音楽を通して愛を伝えたい、という点で共通しているものがあるといえる。


時間と空間を超えて

本作品は、二人が出会った2年前から来年の夏の記念日までの、すなわち3年という時間を区切った愛の形を描いている。
二人の出会った場所は、2年前の土曜日の映画館かもしれない。その時「キス・ミー・ケイト」を見たとしたら来年は何の映画を見ることになるのだろうか。そのとき二人は何を想うのだろうか。

短い期間、特定された空間の中で、二人の想いは凝縮され、一層切ないものとなっている。

それは永遠の愛に通じているように思われる。

 

以上

『 二人の夏』  
作詞:坂井泉水 作曲:栗林誠一郎 編曲:明石昌夫
初収録:4thアルバム「揺れる想い」(1993年7月10日発売)
タイアップ:なし
歌詞(アルバム盤)
偶然に見かけたの バス停で
結婚すると噂で聞いたけど
スーツ姿のあなたは
やけに大人に見えた
少し距離感じたせい?
声かけそびれたの

わすれかけた 二人の夏 胸に蘇る
あれからもう どれくらいの月日(とき)が過(た)ったのだろう
振り向くはずのないあなたに
サヨナラ言った
どうかずっと変わらずにいて
大好きだった 笑顔だけは

別離(わかれ)ても しばらくは悲しくて
あなたの電話 ずっと待っていたの
今はもうそれぞれに
違うパートナー見つけ
別の道歩き出した
もう戻らないわ

輝いてた 二人の夏 波がさらう様に
いつかはきっと 遠い記憶の彼方に消えてく
あなたの写真大切にしまっておくわ
いつかどこかでまた逢えること
祈ってるわ 元気でね

  


心の世界
「二人の夏」は、過去の恋人を偶然見かけたことから始まる。
“偶然にバス停でみかけた”“結婚すると噂で聞いた”、“スーツ姿のあなた”が“やけ大人にみえる”という表現により、具体的な状況が徐々に見えて来る。
このように昔の恋人を偶然見かける、という出来事をきっかけに物語を語ろうとする場合、見かけた場所や時間、それまでの経緯や状況、光景等外部の状況を具体的に描写すればするほどリスナーにとっては容易に感情移入できるが、それだけ想像力を働かせる余地はなくなる。
本作品は、冒頭の導入部から場面は一転し、外部に向いていた目は内部に、心の中の世界に向かう。物語の説明ではない。その心の中の世界から自由に想像を働かせることにより、様々な物語が新たに生まれる。


時間の世界
心の中の世界では、過去、現在、未来は交錯する。時間は直進的には進まない。
時間について小林秀雄は「僕等の発明した時間は生き物だ。過去と言い未来と言い、僕等には思い出と希望の異名に過ぎず、この生活感情の言わば対照的な二方向を支えるものは、僕等の時間を発明した僕等の生に他ならず、それを瞬間と呼んでいいかどうかさえ僕等は知らぬ。従ってそれは“永遠の現在”とさえ思われて、この奇妙な場所に、僕等は未来への希望に準じて過去を蘇らす。」(ドストエフスキイの生活)と言っている。
またレヴィナスは、「時間は孤立した単独の主体に関わる事実ではなく、時間はまさに主体と他者の関係そのものである。」(時間と他者)と言っている。
過去は記憶であり、未来は期待である。過去は蘇り、未来は切ない。二人の関係を巡る“永遠の現在”の世界心は往還する。


電話と写真
あなたの電話”は過去における期待すなわち未来であった。しかしもはやその未来はない。大切にしまっておく“あなたの写真”は未来における失われた過去の記憶である。
電話と写真という二つの言葉が対句的にあらわれ、失恋の悲哀が一層切実なものとして伝わってくる。
電話は空間と時間を一瞬で超える会話を可能にする。写真は、ロラン・バルトはその本質のひとつとして「それはかつてあった」(明るい部屋)ということをあげており、、スーザン・ソンタグは「この瞬間をまさしく裁断し、凍らせることで、すべての写真は時の容赦のない溶解作用を証言する」(写真論)と言っている。
電話や写真といった近代文明の産物は日常生活においてあまりにもありふれたものとなっており、われわれはその存在について普段意識しない。しかし、その出現によってわれわれの意識や行動は変わってきており、ときにそれは痛切な想いを伴う。
急速な技術の進歩により、電話や写真が前近代的なものとして意識される時代がいつかやって来るであろう。その時代の方がむしろ、本作品がある時代に生きる人の意識をあざやかに描き出し、それゆえに時代を超えてひとの心に訴えかけてくることを感じ取ることができるのではないかと思われる。


言葉
タイトルにも使われている“二人の夏”、という言葉から、熱く燃えた恋のイメージがわく。
あれからもうどれくらいの月日(とき)が過(た)ったのだろうという言葉から、その恋が終わってからの長い時間のイメージがわく。ときを月日と、その月日の経緯を経つではなく過つ、と表すことにより、長い年月に対する想いが一層深く感じられる。

一方、二人の夏を“波がさらう”、という表現から、夏の海辺の光景が浮かび上がる。夏と波という言葉が響きあいかつての恋のイメージが拡がる。
“いつかはきっと”という言葉から時間的な、“彼方に消えてゆく”という言葉から空間的な距離感覚が感じられる。
「かつてそれはあった」恋が「時の容赦のない溶解作用」によりいつかはきっと消えてゆく。
未来に向かって消えてゆかざるをえない恋のイメージが時間と空間の中で鮮明に浮かび上がってくる。
一見すると何気ないごく普通の言葉を連ねて詞が構成されているように見えるが、表記方法も含めてこれらの言葉は綿密に選び取り、組み合わされている。失われた、そして失われるであろう恋への痛切な想いが静謐な言葉の中で語られてゆく。
「言葉の使い方とは、心の働かせ方に他ならず、言葉の微妙な使い方に迂闊でいる者は、人の心ばえというものについて、そもそも無智でいる者なのだ。」(本居宣長)と小林秀雄が言っているのはまさにこの様なことであろう。


作者の想い
二人の夏、というタイトルは、わたしの夏があるようにあなたの夏もあることを表している。この物語は客観的な、離れた視点で語られる。世阿弥のいう「離見の見」すなわち「自らを観客であるかのように見ている役者の視線」のようである。
一見、個人的な特定の経験を語っているように見えるが、みずからの別れの悲しみ、苦しみを、ただ一人の悲しみ苦しみとして歌っているのではない。独りよがりの告白や感想に寄りかかり、もたれ掛かる弱さもない。個人の経験は、言葉によって普遍的な「経験」へと昇華されている。
再び小林秀雄によれば「悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。」(美を求める心)ということであろう。
アリストテレスは、「作家というものは、作品の中に自分が直接顔を出して語ることを、できるだけひかえなければならない。それは彼を描写家たらしめるゆえんのものではないからである。」(詩学)と言っている。
これは作詞だけにとどまらない。作者と一緒に仕事をしたレコーディング・エンジニアの島田勝弘は「アーティスト目線とリスナー目線。坂井さんは常に両方を持つように心がけていたと思います。そのことについては見事でした。(中略)その努力もあって、歌詞、メロディ、アレンジ、ミックス…… が調和していきました」(永遠 君と僕との間に)と言っている。
「私はいつも本当にことばを、詞を大切にしてきました。音楽でそれが伝わればと願っています。」という作者の言葉がすべてを語っている。

 

終りに
本作品は、別れた恋人との偶然の出逢から物語が始まる。
しかしそこには相手に対する恨みや憎しみはない。自己の正しさを声高に主張したり、相手を打ち倒したり傷つけることはない。泣き寝入りをして自ら身を引くといった昭和の女はいない。変わらずに、元気でいてと相手にエールを送りつつそれぞれの道を歩み始める。
そこにあるのは、相手を思いやる優しさであり、レヴィナスはそれを慈悲とよんでいる。
「慈悲(シャリテ)(慈善、隣人愛、愛徳)と正義とのあいだの本質的な差異は、まさに正義の観点からすれば、正義にはもはやいかなる優先順位も不可能であるのにひきかえ、慈悲のほうは他者を優先する、ということに由来するのではないだろうか。」(時間と他者)
本作品はまさに、相手を思いやり、自己を大切にし、自立した道を歩み始めるすべての人に対するエールとなっている。その根底に流れているのは愛である。
セルバンテスサンチョ・パンサに、「あれはわし共が神様だけに向けろと説教士が言うのを聞いたことのあるような愛だ。永遠の栄光への希望とか、地獄への恐れとか、そういうものに動かされないような、純粋な愛だね。」(ドン・キホーテ)と言わせている。
これこそ作者が最も伝えたかったことであると思われる。

以上

掲載曲リストと参考文献等のまとめ(中間報告)

今後も続けるがとりあえず今までの20曲をまとめたもの。
掲載曲リストの「CD発表順」は、最初の「Good-bye My loneliness」を(001)として、筆者が仮につけたもの。
参考文献等の末尾にある番号は、掲載曲リストの「掲載順」の番号であり、その曲について書くときに引用したり参考にさせていただいたもの。

 

1・掲載曲リスト
(掲載順) 「タイトル」 (CD発表順)
001 あの微笑みを忘れないで(019)
002 ハイヒール脱ぎ捨てて(059)
003 DANDAN心魅かれてく(075)
004 フォトグラフ(099)
005 愛が見えない(065)
006 カナリヤ(040)
007 Oh my love(045)
008 遠い日のNostalgia(023)
009 星のかがやきよ(136)
010 止まっていた時計が今動き出した(127)
011 心を開いて(071)
012 マイフレンド(069)
013 不思議ね(007)
014 眠れない夜を抱いて(015)
015 サヨナラ言えなくて(018)
016 I still remember(048)
017 君とのふれあい(139)
018 いつかは・・・(014)
019 揺れる想い(031)
020 負けないで(027)

 

2.参考文献リスト
<哲学・思想・宗教・心理学等>
・「詩学アリストテレス 世界の名著8中央公論社(001,002)
・「詩学」(創作論)アリストテレス 藤沢令夫訳(017)
・「アリストテレス」田中美知太郎編 世界古典文学全集16筑摩書房(017)
・「告白」アウグスティヌス 世界の名著14中央公論社(003, 010,012)
・「パンセ」パスカル前田陽一、由木康訳 中公クラシックスw10中央公論社(003)
・「愛の情念について」パスカル 世界の名著 中央公論社(016,019)
・「人間悟性論」ジョン・ロック(001、013)
・「形而上学入門」アンリ・ベルクソン(001)
・「創造的進化」アンリ・ベルクソン (003)
・「道徳と宗教の二つの源泉」ベルクソン森口美都男訳 世界の名著53中央公論社 (020)
・「ドゥルーズ」(没後10年、入門のために) 河出書房新社 道の手帖 (013)
・「千のプラトージル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ宇野邦一他訳 河出書房新社( (003)
・「ロラン・バルト」グレアム・アレン青土社シリーズ現代思想ガイドブック 原宏之訳  (004)
・「ロラン・バルト石川美子 中公新書2339 中央公論新社 (004,020)
・「表徴の帝国」ロラン・バルト宗左近訳、新潮社(004,020)
・「批評と真実」ロラン・バルト (012)
・「時間と他者」エマニュエル・レヴィナス原田佳彦訳叢書ウニベルシタス178 (003,012,016)
・「愛するということ」 エーリッヒ・フロム(懸田克躬訳)紀伊国屋書店 (007)
・「現代フランス思想とは何か」J.G.メルキオール 財津理・荻原真訳)河出書房新社(008,020)
・「フランス現代思想を読む」渡辺諒 白水社 (020)
・「夜と霧」(新版)ヴィクトール・フランクル 浅田香代子訳 みすず書房  (020)
・「生と死の言葉」中国の名言を読む 川合康三 岩波新書赤版1683(018)
・「人生論ノート」三木清角川ソフィア文庫(007、012)、新潮文庫(016,019)
・「哲学ノート」三木清 (001)
・「読書と人生」三木清講談社文芸文庫 (003)
・「道元」日本の名著第7巻(玉城康幸四郎解説、訳)中央公論社(010)
・「正法眼蔵」増谷文雄全訳注(講談社学術文庫010)
・「親鸞論」吉本隆明(012)
・「私とは何か」(「個人」から「分人」へ)平野啓一郎 講談社現代新書007,(018)
・「妻との修復」嵐山 光三郎 講談社現代新書 010,(012)
・「わかりあえないことから」 平田オリザ 講談社現代新書(012,020)
・「日本的感性」中公新書 佐々木健一著 (003)


<文学海外>
・「シェイクスピア詩集」 イギリス詩人選 (1) 柴田稔彦訳 岩波文庫 (006,019)
・「ヴィーナスとアドゥニス」世界古典文学全集46・シェイクスピアⅥ 本堂正夫訳 筑摩書房(019)
・「ディキンスン 詩と評釈」モーデカイ・マーカス著 広岡實翻訳 大阪教育図書(013)
・「フランス文学史鈴木力衛 明治書院(013,018)
・「フランス文学講義」塚本昌則著 中公新書2148(003,008)
・「詩の冥府」 ボードレール多田道太郎編 「エロスの図柄」杉本秀太郎 (013,018)
・「ランボー全詩集」 アルチュール・ランボー 鈴木創士訳 河出文庫(001)
・「地獄の季節」小林秀雄岩波文庫(014)
・「ランボー全詩集」 アルチュール・ランボー 鈴木創士訳 河出文庫(014)
・「詩(うた)のささげもの」アポリネール宗左近 新潮社  (013)
・「プルーストを求めてアンドレ・モーロワ井上究一郎平井啓之訳 筑摩書房(003,007,013)
・「南方郵便機・人間の大地」サン=テクジュペリ著作集1 山崎庸一朗訳 みすず書房(009)
・「星の王子様」サン・テクジュペリ作 内藤濯岩波少年文庫001  (009)
・「ファウストゲーテ大山定一(筑摩世界文学大系)(010)
・「世界の文学 チェーホフ神西清他訳 中央公論社(004)
・「陶淵明」中国詩人選集4 海知義 注 岩波書店(018) 
・「陶淵明一海知義著 岩波新書(018)
・「故郷」魯迅 竹内好訳 岩波文庫(003)

<文学日本>
・「日本文学の歴史」6古代中世編6ドナルド・キーン 土屋政雄中央公論社(001,004,011)
・「日本文学の歴史」 7近世編1松尾芭蕉 ドナルド・キーン中央公論社 (013,015)
・「日本文学の歴史」10近代・現代遍1樋口一葉 ドナルド・キーン徳岡孝夫訳中央公論社(013)
・「日本文学の歴史」12近代・現代遍3芥川龍之介ドナルド・キーン中央公論社 (016)
・「日本文学の歴史」17近代・現代編8萩原朔太郎三好達治ドナルド.キーン中央公論社 (005,020)
・「日本近代文学の名作」吉本隆明新潮文庫 (004,017)
・「文学フシギ帖」池内紀 岩波新書 赤1261 (013)
・「紫式部日記」ドナルドキーン(012)
・「絵物語再見」奥平英雄著 角川書店 (017)
・「平家物語石母田正 岩波新書 (011)
・「日本の文学」森鴎外(二)解説 三島由紀夫 中央公論社(016)
・「漱石のこころ」赤木昭夫岩波新書1633(006)
・「漱石はどう読まれてきたか」石原千秋著 新潮選書 (006)
・「芥川龍之介集」新潮日本文学10」解説吉田精一(016)
・「武蔵野」 「国木田独歩集」現代日本文学全集14筑摩書房(001)
・「太宰治」 岩波新書 細谷博著 (006)
・「愛と苦悩の手紙」太宰治から仏文学者の河盛好蔵に送った手紙(角川文庫に収録)(020)
・「雪国」「川端康成集」現代日本文学全集66 筑摩書房(001)
・「新編折々のうた大岡信 朝日新聞社(011)
・「詩の楽しみ」吉野弘著岩波ジュニア新書32 (003)
・「萩原朔太郎伊藤整編(003)
・「朔太郎の詩の音楽性」那珂太郎(005)
・「恋愛名歌集」萩原朔太郎 (005)
・「萩原朔太郎 三好達治」D.キーン(005)
・「萩原朔太郎」群像日本の作家10 小学館(006,013)
・「萩原朔太郎;拾遺詩集」(007)
・「中原中也樋口覚 講談社新書メチエ68(011,013)
・「西脇順三郎詩集」 那珂太郎編(岩波文庫緑130-1)(109)
・「和歌とは何か」 渡部泰明著、岩波新書 (017)
・「皇后美智子さま 全御歌」(釈 秦澄美枝 新潮社2014年)(008)
・「解説百人一首」橋本武著ちくま学芸文庫 (004,017,018)
・「詳解小倉百人一首桐原書店犬養孝、犬養廉著(018)
・「芭蕉 その鑑賞と批評」 山本健吉 飯塚書店 (004,006)
・「芭蕉山本健吉 (012)
・「芭蕉」田中善信著 中公新書2048(006)
・「決定版一億人の俳句入門」長谷川櫂 講談社現代新書2029(019)
・「うたの動物記」小池光  日本経済新聞出版社 (011)
・「武蔵野をよむ」赤坂憲雄 岩波新書1740 (001)


<言語>
・「ことばと思考」岩波新書1278今井むつみ著(003)
・「日本語を翻訳するということ」牧野成一著 中公新書2493 (003,020)
・「日本語オノマトペ辞典」小野正弘編 小学館  (003)
・「やまとことば」美しい日本語を究める 河出書房新社編集部編(003)
・「広辞苑先生、語源をさぐる」新村出 河出文庫(009)
・「くりかえしの文法」大修館書店 牧野成一 (020)


<演劇>
・「能・文楽・歌舞伎」ドナルド・キーン 吉田健一・松宮史朗訳 講談社学術文庫(004)
・「オセロー」シェイクスピア全集ウィリアム・シェイクスピア 小田島雄志訳 白水Uブックス27(006)
・「日本文学の歴史」 能 ドナルド・キーン(006)
・「シェイクスピアの男と女』河合祥一朗著 中公叢書(006)
・「アメリカ演劇の世界」田川弘雄・鈴木周二 編著 研究者出版  (016)


<絵画>
・「キュビスム」岩波世界の美術ニール。コックス著田中正之岩波書店 (001、003)
・「近代絵画」小林秀雄全作品22新潮社(001,004)
・「美を求める心」小林秀雄全作品21新潮社(016)
・「ピカソ瀬木慎一集英社新書(018)
・「ピカソ講義」岡本太郎 宗左近 ちくま学芸文庫(018)


<写真>
・「写真論」スーザン・ソンタグ近藤耕人訳 みすず書房 (004,008)
・「明るい部屋―写真についての覚書」ロラン・バルト花輪光訳みすず書房 (004,008)
・「写真と文学」塚本昌則 平凡社(004)
・「写真的映像の存在論アンドレ・バザン(004)
・「センチメンタルな旅 冬の旅」荒木経惟 (018)


<歴史>
・「世界の歴史」27自立へ向かうアジア長崎暢子 中央公論社(003)
・「日本の歴史」7 鎌倉幕府 石井進 中央公論社(004)


<自然科学>
・「データサイエンス入門」竹村彰通著(岩波新書赤1713(009)
・「蝕楽入門」(仲谷正史他著)朝日出版社(001,003,013)


<その他>
・「田園の発見とその再生」根木昭ほか著 晃洋書房(001)
・「文学とアダプテーション」小川公代、村田真一吉村和明編 春風社(006)
・「アダプテーションの理論」リンダ・ハッチオン(006)

 

<記事論文等>
・「ランナーの街道」港千尋(写真家)読売新聞「考景2013」欄(003)
・「アート散歩=ニューヨークが生んだ伝説 写真家 ソール・ライター展」鴻巣友季子(聞き手松本由佳)2017年6月4日読売新聞日曜版(004)


・「海女の亡霊 恋慕と狂乱」 能「松風」の「中ノ舞」「破ノ舞」 「極め付き名場面」読売新聞2017年9月27日(水)文化欄記事


・「次代への名言」小津安二郎7産経新聞2009年12月13日 (016)
・「星の王子さま」月間文芸春秋2018年9月号特集「孫と読みたい一冊」冒険家三浦雄一郎(009)


・「場所と記憶の地理学」(博士論文)神戸大学大学院文化研究科(博士課程)相澤亮太郎(003,004)


・「大都市と移民」森 明子 国立民族学博物館研究報告30(2)145-229 (2005) (003)


・「ZARD坂井泉水の歌詞における表現特性」大阪教育大学教育学部 平成25年度卒業論文 平山 剛

 

以上