『あの微笑を忘れないで』
作詞:坂井泉水 作曲:川島だりあ 編曲:明石昌夫
初収録:3rdアルバム『HOLD ME』(1992年9月2日発売)

<歌詞>
あの微笑(ほほえみ)を忘れないで
Forget your worries and gimme your smile
心の冬にさよならして
走り出そう 新しい明日へ

25時 砂の上に車止めて
語り明かしたあの夏
ぬるいコーラしかなくても
夢だけで楽しかった
思い出して・・・
つまづいた時には電話をしてね

Open your heart 風を感じて
あきらめを手にしないで
都会がくれた ポ-カーface
海に捨ててしまおう
あの微笑(ほほえみ)を忘れないで いつも輝いていたい
心の冬にさよならして
走り出そう 新しい明日へ

レンガ色の空を斜めに見上げて
口笛吹いた my home town
やりたいこと 欲しいものも
抱えきれないほどで
切なさのハードル越えられたね
今も出来るよ

Open your heart ひたむきな
あなたの瞳(め)が好きだった
孤独な時間抱きしめて
人は大人になるから
あの微笑(ほほえみ)を忘れないで いつも輝いてたい
もう 何も迷うことなく
走り出そう 新しい明日へ

You’ve got to open your heart
When ever you feel blue
Forget your worries and gimme your smile

心の冬にさよならして
走り出そう 新しい明日へ

Open your heart 風を感じて
あきらめを手にしないで
都会がくれた ポ-カーface
海に捨ててしまおう
あの微笑(ほほえみ)を忘れないで いつも輝いていたい
心の冬にさよならして
走り出そう 新しい明日へ


<構成>
本作品は、一見何げない言葉を連ねながら、その構成、表現方法など綿密に考慮されてできあがっているように思われる。

本作品は4つの時からなっている。歌詞に出て来る順では、心の冬の状態は現在、走り出そうとする新しい明日は未来、砂の上に車を止めて語り明かしたのは過去、レンガ色の空を斜めに見上げたの過去の過去、でありそれぞれの時に応じて場所も異なっている。
物語りは一人称で語られており、その主体=私は、現在から過去及び過去の過去を振り返り、いずれも誰かに呼び掛けている。
過去を振り返ることは、遠くの他人をながめるかのように過去の自分の行動を観察し、自己の存在を現在に至るまでの様々な内面の経験の視点から見つめることでもある。過去や過去の過去は単に時間軸上にあるのではない。それらは、その時々の異なる環境をどのように乗り越えたかにより、初めて生じるのであり、現在の自己の存在そのものである。本作品は、人と人との関係の中における自己の存在そのものの本質を捉えようとする物語である。
このような構成のゆえに、本作品は、歌い手から聴き手への呼びかけにもなり、聴き手自身が自分に呼びかけるという感覚にもなり、想像力の中で奥行きが広がっていく。

 

<表現 身体感覚、比喩、擬人化など>
本作品には様々な表現手法が用いられている。
身体感覚では、「ぬるいコーラ」という味覚、「電話」や「口笛」という聴覚、、「レンガ色の空」という視覚「風を感じて」とという触感あるいは体感等があげられる。
さらに、「あきらめを手にしない」や「孤独な時間抱きしめるという」感情や心理の身体感覚化、「都会がくれた ポ-カーface」という擬人化、「心の冬」「切なさのハードル」という心理面からの比喩などがある。

川端康成は代表作の「雪国」の中で、様々な表現方法を駆使しており、「新感覚派」と呼ばれた。
「静かな嘘」、「透明な儚さ」と形のないものの聴覚化、視覚化、
「なつかしい悔恨」、「美しい徒労」という一見矛盾した表現、
「涼しく刺すような娘の美しさ」という温感と触覚の一体化、
「悲しいほど美しい声」という感情と感覚的表現の融合
などがあり、何か共通するものがあるように感じられる。
夕暮れの光景について「国境の山々は赤錆色が深まって、夕日を受けると少し冷たい鉱石のやうに鈍く光り」と表現しており、坂井の「レンガ色の空」という表現がどこか懐かしく温かさを感じさせるのに対し、「雪国」という作品のイメージ通り冷たく硬質な印象を与える。

フランスの詩人ランボーは、その詩集「イリュミナシオン」の中の詩で、「俺は夏の夜明けを抱きしめた」という表現をしている。作者には「孤独な時間を抱きしめる」という表現の本作品の他『眠れない夜を抱いて』という作品(本作と同じく1992年発表)もあり、感覚的に通じるものがあると思われる。

「孤独な時間を抱きしめる」とは、孤独に対する作者の見方が示されているようにみえる。作者が影響を受けたと言っているピカソは「「孤独なしには、何一つ為し遂げる事は出来ない。私は、かって私の為の一種の孤独を作った。これについては誰も知らない」と語っている。

19世紀のアメリカの詩人エミリー・ディキンソンは、「石英の満足」(”Quartz contentment”)、「鉛の時間」(”The Hour of Lead ”)、「(はえの飛ぶ)暗うつなうなる音」(“Blue Buzz”)など豊富な語彙による感覚の比喩的描写で知られており、またその詩の中では、

それぞれがその困難な理想を/それ自らを達成しなくてはならない/静かな人生の/ひとりぼっちの勇気によって/努力はその唯一の条件/それ自身の忍耐/そしてそこなわれない信念

と、個人的な成長は内的な力に依存するものであることを詠っている。いずれも比喩や孤独に対する考えなどに共通するものがあるように思われる。

さらに、「心の冬」、「あの夏」という季節を対比させており、坂井は「私の詩は8割方、季節のわかる言葉が出てきますね。それを意識して作ってるんですけど」と言っているので、明らかに意識的な対比であると思われる。

 

<「レンガ色の空を斜めに見上げる」とは>
“レンガ色の空を斜めに見上げて
口笛吹いた my home town“

 このフレーズは、生まれた街の夕焼けの空を斜めに見上げて口笛を吹く、という幸福であるとともに多感で屈折した少年少女期に多くの人が経験したであろう普遍的な行為とともに、ある時代と場所に特定された記憶をも表現している。

日本人の「心のふるさと」として「故郷」として長く心象風景の根幹を形づくってきたのは沖積平野に広がる水田の景観であった。これに対し長い間、大都市近郊の台地や丘陵地は水利が悪く稲作が出来ないため、殆んど開発されず草原や雑木林の生い茂る世界だった。

国木田独歩は「武蔵野」(1898年)中で、“大洋のうねりの様に高低起伏して居る”と言っている。さらにその奥の方は万葉の時代から“多摩の横山“とよばれ馬を放し飼いするような土地であった。

佐藤春夫は東京近郊の多摩丘陵の一角に移り住み、『田園の憂鬱』(1919年)で、「広い武蔵野が既にその南端になって尽きるところ、それが漸くに山奥の地勢に入ろうとする変化―言わば山国からの微かな余情を湛えたエピロオグであり、やがて大きな野原への波打つプロロオグでもあるこれ等の小さな丘は、目のとどくかぎり、此処にも其処にも起伏して」と描いている。彼はこの丘を非常に好きになった。「彼の沈んだ心の窗(まど)である彼の瞳を、人生の憂悶からそむけて外側の方へ向ける度毎に、彼の瞳に映って来るのはその丘であった」。丘陵地帯の様子を印象深く書いているのは、当時の多くの人にとっては、珍しい風景であったからであろう。しかしそこに住む貧しい農民の生活や荒れた自然の猛威は彼が理想とした田園生活には程遠く憂鬱なものでありついに逃げ出すことになる。

画家の岸田劉生は「道路と土手と塀(切通之写生)」や「代々木付近の赤土風景」(ともに1915年)で、ローム層の赤い土が、都市の開発によって掘り返され坂が作られる新しい風景を驚きと共に描いた。

近代化による開発の波は次第に郊外へ大規模なものとなって進んでいった。広大な土地の一部は国や軍の用地などに活用され、戦時中は軍需産業の工場などがもうけられることになった。これらの土地は戦後は学校等の公共施設や米軍基地、また多くの団地、すなわち「住宅が計画的に集団で建つ土地」に転用された。○○が丘、○○台、あるいは○○ニュータウンといった駅や団地の名称は、その土地の特性を表している。高度成長の時代には、急増する通勤者のために、大都市近郊の住宅地すなわちベッドタウンの開発が進み、この様な動きは、中小の都市にまで広がり、20世紀後半の日本にとって見馴れた光景となった。

これらの土地はバブル期に向かう1980年代半ばに、新たに脚光を浴び、沿線の新たな大規模な開発が始まった。佐藤春夫が“人生の憂悶からそむけて外側へ向けた瞳”に映った丘には人工的に区画整備された高級住宅地が幾重にも重なって広がっていった。新たに住み着いた人々にとっては、そこは石川啄木の歌にあるような地縁や血縁で結ばれた故郷ではなく、また佐藤春夫が描いた貧しい農家が点綴する村でもなかった。作者はこれを“マイホームタウン”と表現している。

村上龍は『テニスボーイの憂鬱』(1985年)の中で、赤土のために開発が遅れた丘陵が開発され新興住宅地として造成されていく中で土地を売って大金を手にした古くからの農民や新しく移り住んだ住民の生活を描いている。この土地は時代の最先端を行く「金曜日の妻たちへ」(1983年)などのトレンディドラマの舞台ともなった。

このように郊外に造成された近現代の住宅地は、ほぼ全て、洪積台地の上や縁(へり)、水田を見下ろす高台にある。“大洋のうねりの様に高低起伏”が続く“この土地から空を見上げるときは、従来から見馴れた水田が連なる平地から見上げるのと異なり、”斜めに見上げる“という感覚が生じるであろう。

見上げる夕焼けに赤く染まった空は、その色からレンガが連想される。レンガは、近代化が進む中で、外国のような街並みの風景への憧れとして、また軍の施設や工場等の建物の素材としてある時代の象徴であった。またレンガは古くなればなるほど色が柔らかくなって心に響き懐かしさを感じ郷愁を誘う。斜めに見上げる夕暮の空はその色からレンガが連想され、近代化が進む土地や風景の中で懐かしい少年少女時代を過ごしたかつての自分の記憶に通じていく。

“レンガ色の空を斜めに見上げて
口笛吹いた my home town“

一見さりげない表現は、21世紀にはもはや見馴れた光景でも20世紀後半の人々にとって都市近郊に新たに大量に作られた住宅地に対する新鮮な驚き、また高度成長期やバブル期という時代のそこでの生活や心象風景、希望や挫折などをまるでシャッターを切るような正確さで捉えている。21世紀に入ってから、高齢化、建物の劣化、空室の増加等多くの課題が押し寄せているが、それだけに一層ある時代や生活を象徴していることが鮮明に浮かび上がってくる。短いフレーズで普遍性と時代性という二つの相反する要素が表現されている。

1995年に発表されたスタジオジブリのアニメ映画『耳をすませば』は、連なる丘の斜面に郊外の住宅地が広がり、眼下には川と私鉄の線路、そして遠くに都心のビル群や山が見える土地が舞台となっている。主人公の中学生の女の子と男の子は、卒業を控え大人への一歩を踏み出そうとしてそれぞれの歩む道を見つける。ラストシーンで丘の上から町を見下ろし、夢を果たすためにいったん別々の道を歩むけれど、一人前になったら再会して結婚しようと誓い合う。「あの微笑みを忘れないで」を彷彿とさせる作品である。

作者は、このフレーズをはじめ、この曲の歌詞は自身の出身地である秦野(神奈川県)の風景をイメージしながら書いたものだと、スタッフとの会話の中で話していたとのことである。秦野は、開発が進んだ東京近郊の外縁部にあり、その風景や懐かしい思い出が本作品の底に流れている。

 

<タイトルに込められた意味>
 本作品は、原稿では、タイトルは“微笑みを忘れないで”となっており、作者は最後の段階で“あの”という言葉を書き加え“あの微笑みを忘れないで”とした。様々なエピソードや工夫された丁寧な表現を積み重ねた歌詞により、単に抽象的に“微笑み”というのではなく、“あの微笑み”とすることで、具体的なイメージが一気に広がり印象が深まってくる。

 

<最後に>
 このように本作品は、一見、さりげない表現で綴られているが、時間が経つにつれ、少しづつ人の心の深いところにさまざまな思いを引き起こしていく。その過程の中で、読み手や聴き手は自己の経験と照らしあわせ自分自身の世界を見つめていく。
困難や不安な状況に直面し先が見えない時でも、今まで生きて来た中で様々な困難を乗り越えて来ることが出来た自己を信じ、あなたができるなら私もできる、私ができるならあなたもできる、迷うことなく、新しい明日へ向けて飛びだそう、と呼び掛けている。
人に優しく寄り添い、明日へ向けて走り出そうと背中をそっと押してくれる、作者の作品の特徴が良くあらわれた作品であると思う。

以上