『愛が見えない』
作詞:坂井泉水 作曲:小澤正澄 編曲:葉山たけし
初収録:15シングル『愛が見えない』(1995年6月5日発売)
タイアップ:エフティ資生堂「SEA BREEZE '1995」CMソング
提供:
歌詞(アルバム盤)
あの頃は楽しかった 仲間も多くて
たわいもなく何時間も話してた
遊びの帰り いつも終電に乗り遅れたね
懐かしいな あのドーナツ屋さん

朝一番の始発で帰る私は ひどい顔
出かけていく時の私とは 別人の顔
このごろ逢えばケンカばかり 一緒に居すぎかな

愛が見えない 今の時代 都会(まち)はみんな 急ぎ足で
きっと誰もが 孤独なのに あなたも私も それを見せない!

一人で生きて行くほど強くないくせに
時々 独りになるのが好きになる
一番肝心な貴方(ひと)に 何故優しくできないの?
他の人には気を使うのに

電話を切ったのはどっちが先 私が先
「もう別れよう」と言い出したのは あなたが先
夢を捨てるのが大人なら 大人になんかなりたくない

愛が見えない もうこれ以上 あなたの海 泳げないわ
あんな風にあなたの事 愛せる人は 私しかいない!

愛が見えない もうこれ以上 あなたの海 泳げないわ
でも私の 幸せのカギ 握っているのはあなたよ
愛が見えない Only you forever すべて分かりあえなくても
言葉(やさしさ)より キスが欲しい 灼熱の夏に踊らせて!

 

「愛が見えない」は、音声の効果を最大限に生かした作品であるといえる。この点を考えてみたい。

1)母音(a音)の効果
全22行中、最初の音の母音がa音(あかさたなはまやらわ)で始まるのが11行と半分を占めている。特に最初の1行目から5行目と最後の17行以下22行に集中している。さらに冒頭の5行(下記)を見ると、21文節中14文節がa音で始まっており、これでリズムを生み出し、一気に歌の世界に入ることができる。網掛け部分が文節の冒頭の音がa音を示す。

1)あの頃は / 楽しかった / 仲間も / 多くて /
2)たわいも / なく / 何時間も / 話してた /
3)遊びの / 帰り / いつも / 終電に / 乗り遅れたね /
4)懐かしいな / あの / ドーナツ屋さん /
5)朝一番の / 始発で / 帰る / 私は / ひどい顔

このようにa音を強調した短詩形文学作品は多い。

三好達治の詩「乳母車」は、第一連は
「母よー/淡くかなしきもののふるなり/紫陽花いろのもののふるなり/はてしなき並樹のかげを/
となっており、第二連以下も、“母よ”“淡く”紫陽花いろ“の反復使用のほか、「泣きぬれる」「赤い」「旅」といったa音の語頭音が多くの行の冒頭に用いられている。

高村光太郎の詩集「智恵子抄」にある詩「樹下の二人」の冒頭のフレーズは、
「あれが 安達太良山、あの光るのが阿武隈川~」
から始まるが、句の頭はすべてa音で始まり、全体では22音のうち15音がa音で始まっている。

野口雨情は「詩は<あ>から書き始めるのがいい」と言っている。彼の代表的な童謡の「七つの子」「赤い靴」「シャボン玉」などみると確かにそういう傾向にある。

短歌も同じことが言える。とくに作者が好きだと言う啄木にはこの傾向が強いように思われる。

やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
たはむれに母を背負いて そのあまり軽(かろ)きに泣きて 三歩あゆまず
函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花
はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る

俳句ではどうだろうか。芭蕉の俳句
五月雨を 集めて早し 最上川芭蕉
では、最初は“集めて涼し”だったが推敲を重ねて“集めて早し”という形になったものであり、言葉の意味と17音中8音とa音を重ねる音韻上の効果が相まって最上川の急流を生き生きと描写している。

a音を強調することは、さらに遡ることができるようである。平安時代末期から鎌倉時代にかけての歌人藤原定家が選定したと言われる小倉百人一首をみると、上の句の最初の音がa音で始まる歌が百首中五十一首と過半数を占めている。下の句の最初の母音は三十六首であることからみても、上の句の多さがわかる。定家はこの百人一首を一つの作品とみなし、その世界に入り込むための音韻上の効果を考えたのではないかと思われる。後世、かるたとして普及したのも、読み上げる際の調べの良さが一役かっているのではないかと思われ、定家の意図した効果が千年近く経った現在でも有効であることを示している。

以上みたように、詩や和歌、俳句等日本の短詩形文学では、伝統的に文または文節の頭に同一母音音を集中して繰り返すことにより、頭韻としてのリズムを生み出す方法があり、これについて萩原朔太郎は「恋愛名歌集」の中で、“日本語には建築的、対比的の機械韻律が殆どなく、その点外国語に比し甚だ貧弱であるけれども、一種特別なる柔軟自由の韻律があり、母音、子音の不規則な-と言うよりも非機械的な配列から、頭韻や脚韻やの自由押韻を構成して、特殊な美しい音律を調べるのである。この点に於て歌は最上の発達を遂げている”と述べている。
 
「言葉を、詞を大切にしてきた」作者は、歌詞という近代以降新たに生まれた新しいジャンルにおいても、この点を生かし効果をあげているように思われる。


2)a音とi音による効果
a音が多いということは、a音とi音がセットになっている(例えば、愛(ai)、カギ(kagi)等)が多いということでもある。
名詞では、
2音節で、愛、都会(まち)、足、先、カギ、3音節で、私、話、時代
形容詞では、たわい、懐かしい、強くない、優しくできない、
動詞では、見えない、見せない、なりたくない、泳げない、(私しか)いない、分かりあえない

一例として下記フレーズを見ると、
“愛が見えない 今の時代 都会(まち)はみんな 急ぎ足で”
“aigamienai imanojidai machi waminna isogiashide”
これを母音のみで表わすと
“aiaieai iaoiai aiaina ioiaie”
となり、1行に“ai”の組み合わせが7つもある。プロの声楽家は練習するとき、歌詞を母音のみで歌うことがあるそうだが、「愛が見えない」をそのようにして歌えばまさにaiのオンパレードであることがよく分かる。
「愛が見えない」というタイトル自体、冒頭の“愛”と最後の“ない”でいずれも“ai”という母音の組み合わせとなっており、これが歌詞全体を象徴しているといえる。

これらは、偶然ではなく、テンポの速い曲のスピード感に合わせて作者が意図的に言葉を選択した結果であると思われる。

“ai”という組み合わせはリズムを創りあげるためだけの音の組み合わせだけではなく、そこから生まれるイメージ、すなわち“ai”=“愛”を意味しているのではないか。「愛が見えない」の歌詞は、現代における愛の喪失を表わしているが、その中に通奏低音のように“ai”がすなわち“愛”が流れている!
先、都会(まち)、足、カギ、話、時代、優しい、懐かしい、見えない、強くない、などの言葉を選ぶとき、作者は“ai”があること、すなわち“愛”があることを願っていたのではないだろうか。

再び芭蕉の俳句で
秋深きとなりは何をする人ぞ
Akihukaki tonariha nanio suruhitozo
には、母音のaiの組み合わせが4つあり、これが五七五のリズムとあいまって句の印象を深めている。杉本秀太朗はこれに関し、“三好達治は、この句には赤く照り映えている柿の身がよみこまれている、と、どこか別のところで語っていました。「アキフカキ」の語音のつらなりに鋭くひびく「カキ」を聞き分けてのことであります”と言っている。このような発想がでてくるのもaki-hukakiというaiの音の連続から、秋→柿につながっているからだと思われる。
芭蕉俳諧を追究する中で、このように意味ではなく音自体の持つ特性の面からの効果も考えていたように思われる。


3)否定形の多用
ai音の組み合わせで分かるもう一つは、否定形が多いということである。
形容詞では、たわいもなく、強くない、優しくできない、
動詞では、見えない、見せない、なりたくない、泳げない、(私しか)いない、分かりあえない
これには2つの理由が考えられる。

1つは、前述の名詞も含めたai音の繰り返しによる韻律の効果である。
再び萩原朔太郎を見ると、
「すべて詩歌の押韻は自然に適い、工夫の跡が見えないようにするほど上手である。
歌では想の修辞と声調の音象とがよく融和し。前掲の二首の如く調想不離の作を以て最上とする。調と想とが別々になり、音楽と内容が分離して居るものは二流である。
特に「青猫」出版直後に、雑誌「日本詩人」等で発表した数編の詩は、意識的に口語の音楽性を強く表象してみた。それらの詩で、例えば
花でもない 猫でもない 貝でもない 星でもない
と言う工合に、重韻律を盛んに用い、アンニュイの疲れた気分を口語の音楽に書き出して見たりした。
韻文に必要なものは。快美な自然的の抑揚と節奏とであって、単なる数理的な公式格調ではない、一定の公式的韻律は持たないでも、読者に甘美な節奏と音楽を感じさせるものは、本質上の意味に於ての詩、即ち韻文なのである。
僕の過去の詩作は、この点に於て相当の韻律的苦心を払った。特に詩集「青猫」中の諸作は、口語詩としての音楽に力を尽くした。」
さらに、
「 ・・・私が書かうとしたものは「音楽」だった。あのオルゴールの音色に漂ふ、音楽のやるせない情慾の心象だった。(中略)例に就いて種を明かせば、
     交易する市場はないし
     どこで毛布を売りつけることもできはしない
     店舗もなく
の如く「ないし」「できはしない」「なく」等で、同韻の反復重律をしてゐる。~」とも言っている。
これにつていて「朔太郎の詩の音楽性」で那珂太郎は次のように述べている。
「じつに見事な自己批評といつてよく(中略)、特にここで彼は、否定の語法をはじめとして接続詞や助詞や助動詞による同類語法の反復が、単にリズム効果のためばかりでなく、その語韻の響きの音色によつて、「詩それ自体の主想「を「写象」しようとの意図のもとになされたことを強調するのだ。さきに音律に関して言及した通り、音韻に関しても、それは西欧詩の韻律法からすれば単純幼稚な文法韻として忌避されるしかないものだとしても、音韻効果の挙げにくい日本語の特性を省察した上での一方法として、彼は意識的に敢へて行つたのである。」
作者が、言葉を、詞を、大切に考えた結果の音韻の表現方法は、代以降最大の詩人である朔太郎がたどりついた方法と同じであった。

もう一つの意味は否定形の多用そのものが持つ意味である。
三好達治は「千曲川旅情の歌」につき、前述の母音の特徴に続き、<何々は、ない>とか<何々では、ない>と否定しながら展開してゆく詩の顕著な例として挙げている。
「「緑」も「繁縷」も「若草」も、ここでは詩中に一度持出されて、持出されると同時に引きこめられてしまった形であります。だから読者の心理的内部の方からいうと、それらの詩語詩句によって喚び起された心象は、外からの刺激に応じて喚起されるに従って、またやがて一つ一つ放下されてゆく。」
また別の機会には次のように言っている。
「緑なすはこべは萌えず、だよ。芽も出てないんだ。それから若草もしくによしなし、と草もはえてないというんだ。それから、野に満つるかおりもしらず、とくるんだ。匂いすらもないんだ。そしてね、暮れ行けば、浅間も見えず、と、けむりどころか山も見えないというんだ。ひどいもんだよ。何もないというんだよ。」 
三好はこの詩について「いろいろな心象が次々に持出され、それが一つ一つ放下されてゆくために、読者は身軽な精神状態、単純な心理状態に置かれる」という見方をしいる。

「愛が見えない」についてはどうか。韻律の音楽性についてはまさに効果を上げており、言うまでもないと思われる。そうして韻律としての“ai”はそれが繰り返されればされるほど、聞き手の心の中に、ai=愛というイメージが無意識のうちに想起され、個々のことばの表面上の意味は否定形であっても、作品全体としては実は愛を肯定している、愛を信じたいという作者のメッセージが浮かび上がってくる。


4)文字と発音
様々な点で音が強調されているからといっても、単に音のみを重視しているわけではない。文字(漢字)と発音の使い方もよく考えられている。

たとえば“都会”とかいて“まち”と発音しているが、これは“都会”では人が孤立していてその間の愛が見えない、という意を表したい。音声上は、曲のリズムにあい、かつai音を有する表現にしたい、という2つの意を表すためであり、意味上、音声上の2つの意味をうまく活かしている。この場合、都会(tokai)もaiの音を含んでいるが、楽曲のリズムにあわせるため“まち”としたものであろう。

また、“一番肝心な貴方(ひと)”では、作品の視点は一貫して主人公(歌い手)であり、“一番肝心な貴方(ひと)“は、“(私にとって一)番肝心なひと(であるあなた)”である。そのあなたに何故私は優しくできないのか?という内面の葛藤を表している。しかし、音声上“ひと”と言うと、“(あなたにとって)一番肝心なひとである(私)”と正反対に受け取られ、その私に何故優しくできないのか?と相手を非難していると誤解されるおそれがあるため、あえて“貴方”と書いて意味を明確にしたものであろう。

“言葉(やさしさ)より キスが欲しい”は、これまでの詞(=言葉)で述べてきたことの根底にあるのは“やさしさ”であること、さらにそれを超えた世界への展開を予感させて終わる。これは最後の行にあることに意味がある。

発音が同じでもじが 違う例もある。
“一人”と“独り”
“一人”は恋人と別れた結果、二人ではなく一人になることを、つまり“愛が見えなくなる”時間的な状況を、“独り”は単に周囲に人がいない空間的な状況を表している。
“貴方(ひと)”と“人”
詞の主体は一貫して歌い手でもある私であり、私からみて“一番肝心な(ひとである)あなた”を明確にするために貴方という字を使っている。また。“ひと”と発音させることで、その前の“一人”、“独り”さらにそのあと“人”と並べ、いずれも“hito”を含む音の繰り返しによる効果を上げている。

このほかに、対句的表現も効果をあげている。
“ひどい顔”と“別人の顔”
“一人で生きて行くほど強くない”と“独りになるのが好き”
“一番肝心な貴方(ひと)”と“他の人”
“私が先”と“あなたが先”
などのような言葉の繰り返しでリズムと心地よい疾走感を生み出している。


5)こめられたメッセージ
「愛が見えない」は、
“愛が見えない Only you forever すべて分かりあえなくても
言葉(やさしさ)より キスが欲しい 灼熱の夏に踊らせて!“
で終わる。
言葉の技巧を凝らした作品であるがゆえに、“すべて分かりあえなくても 言葉(やさしさ)より キスが欲しい”という最後の歌詞は人の心に一層響いてくるように思われる。

以上