『カナリヤ』
作詞:坂井泉水 作曲:栗林誠一郎 編曲:明石昌夫
初収録:9thシングル『もう少し あと少し…カップリング曲(1993年7月10日発売)
タイアップ:
歌詞(シングル盤)
薔薇の花束が届いた日のこと
“Happy birthday and say Good-bye”
最後の優しさ
12時のシンデレラ 夢は覚めて
彼女はすべてを知らされたのです

行き交う人の視線 痛い程 泣いて
どれだけ彼を憎んだでしょう

You’re the shiny star
Don’t ever make me cry
あなたをみんな待ってる
歌ってよ 自分のために 祈るような星に

外は月の砂漠 聴こえてくるNocturne
張りつめた心 癒して

You are the shiny star
Don’t ever make me cry
あなたを信じている
輝いて 一番強く
二度とない今日を

彼女の心は石になった
やがて恋をすれば 許すことを知り…
歌を忘れたカナリヤも
愛のカゴの中 鳴くのでしょう

 

1)カナリヤの原案
「カナリヤ」は、「誕生日に届けられた薔薇の花束に添えられたメッセージが、別れの言葉だった」というストーリーであり、さらにこのヒロインを慰め、励ます内容であることがわかるが、それぞれの言葉は一見、脈絡がなく、何故このような言葉が使われているのかよく分からない部分が多い。
作者は「カナリヤ」について「あるシンガーの物語。皆さんは私の事だと思うのでしょうか・・・。主人公(主役)が第一人称でもあるし第三人称でもあるというようなフィクションとノンフィクションの境をさ迷う感じですね」と言っている。また、「シェークスピアに興味がある、特にその悲劇に」という内容のことも言っている。下記の様に「カナリヤ」は、シェィクスピアの㈣大悲劇のひとつの「オセロ」を素材にしているように思われる。


2)「オセロ」のあらすじ
ベニスの将軍オセロは北アフリカの出身の黒人であり、ベニスの有力者の娘デズデモーナと無断で結婚するが、怒った父は娘を勘当する。一方、オセロの部下のイアーゴーは副官への昇進を望んでいたが、キャシオーという男にその地位を取られたことからオセロを恨んでいる。
オセロは軍を率いてサイプラス島に赴く。イアーゴーはそのどさくさに紛れてデズデモーナがキャシオーと密通しているという事実無根の話を丁稚あげ、キャシオーをおとしめるとともにオセロを嫉妬に苦しめ恨みを晴らそうとする。イアーゴーの話を信じたオセロは嫉妬に狂い妻を殺害するが、その直後、イアーゴーの策略を知って「愚かではあるが、あまりにも深く愛した男であった」と言って自ら命を絶つ。


3)オセロとカナリヤ
「カナリヤ」の詞には、「オセロ」に由来すると思われるものが下記に例にあげるようにいくつもある。

3-1) “12時のシンデレラ 夢は覚めて 彼女は全てを知らされたのです”
真夜中、嫉妬に狂ったオセロはデズデモーナの寝室に入り殺そうとする。気配を感じて起きたデズデモーナはようやく、何故オセロが彼女を殺そうとしているかを知らされる。

3-2) “行き交う人の視線 痛い程 泣いて” 
この詞は唐突な感じを与えるが、アフリカ出身の黒人であるオセロが白人の有力者の娘と結婚したことに対する偏見が、当時の社会にあり、イアーゴーのオセロに対する憎しみの要因にもなっており、「オセロ」がストーリーの素材になっているとすれば理解できる。

3-3) “歌ってよ自分のために 祈るような星に”
デズデモーナはある夜眠る前、オセロに殺されることを予感するかのように歌を歌う。これは「柳の歌」と言って悲恋で死んでいった娘の歌であり、シェィクスピアの作品の中で唯一一人で歌う歌として有名である。その一節を示す。
“やなぎ、やなぎ、やなぎと歌おう。
しょっぱい涙がしたたりおちて、石をぬらす。
やなぎ、やなぎ、やなぎと歌おう、
悲しみの涙が私の花束なの。“
作者が「カナリヤ」について、“あるシンガーの物語”と言っているのはこれによると思われる。

3-4) “外は月の砂漠 聞こえてくるノクターン
サイプラス島の任務を解かれた後、オセロはベニス政府からアフリカのモーリタニアへの転勤を命ぜられる(第四幕第二場)。これはサハラ砂漠にある国でオセロの故郷である。「カナリヤ」では唐突と思われる詞の背景となっている。

3-5)  “彼女の心は石になった”
デズデモーナが不倫していると邪推したオセロは「おれの心は石になった」という。しかし本当に苦しんでいるのはオセロの恐ろしい誤解を知ったデズデモーナである。「カナリヤ」の“彼女の心は石になった”という詞は、オセロではなく、デズデモーナこそが悲劇の主人公であることを示している。

3-6) “歌を忘れたカナリヤも愛のカゴの中鳴くのでしょう”
「オセロ」はアフリカ人として世界をさまよったことをあげ、「もしおれがデズデモーナを愛していないなら、誰がこのさすらいの自由な境遇を籠の中に閉じ込めてしまうものか」と言う。しかし、その後、部下のイアーゴーの告げ口を信じ、「あの女、所詮は野の鷹、この心臓を餌に飼いならしてやろうと思っていたおれだが、そうと見極めがついたら、口笛を一吹き、いさぎよく解き放ってやるばかりだ」と言う。

 

4)シェークスピア夏目漱石
夏目漱石は東大で、シェークスピア「オセロ」を評釈したことなどもあり「オセロ」を嫉妬の物語と意識して代表作の「こゝろ」を書いたと言われている。しかし漱石の弟子の小宮豊隆は、「『心』の中の『先生』は奥さんを非常に愛してゐる。然し奥さんから愛しられることを欲しない人のやうに見える。此「先生」の目から見るとき、男は何日でも与へる者(強者)であり、女は何日でも受ける者(弱者)でなければならないということになつてゐるらしい」と言っている。
「オセロ」についても同じことがいえるのではないだろうか。オセロも自分の事しか考えておらず、それによって行動する。デズデモーナは運命に振り回されるだけの役割しか与えられていないが、彼女の観点からすればこれほどの悲劇はないと思われる。


5)物語の再構築
これに対し、作者はデズデモーナの観点から物語を再構築しようと試みている。作者は「カナリヤ」について「主人公(主役)が第一人称でもあるし第三人称でもあるというようなフィクションとノンフィクションの境をさ迷う感じ」と述べている。
主人公は作者が言うように、第一人称と第三人称以外に第二人称としても表される。
すなわち、最初は第三人称(彼女)として現れ、次に
“You’re the shiny star”
と第二人称になる。主人公は、「オセロ」でいえばデズデモーナである。最初は、第三人称で客観的に点景の様に現れ、ついでカメラがズームアップするようにその存在が近くなり、主人公に呼び掛けることができるようになる。呼び掛ける主体は、
“Don’t ever make me cry”
と第一人称(私)で表わされる。私は、さらに
“あなたをみんな待ってる(信じてる)“
と主人公に呼び掛け慰め、励ます。
「オセロ」では悲劇的な死を遂げたデズデモーナは、「カナリヤ」では
“やがて恋をすれば 許すことを知り…”
と新しい生を生きる。第三人称、第二人称として現れた主人公は第一人称すなわち私として蘇る。
作者が「フィクションとノンフィクションの境をさ迷う感じ」と述べているのはこのような状況を表しているかのようである。

「オセロ」はデズデモーナとオセロの死によって悲劇に終わる。しかし「カナリヤ」では主人公の生への希望によって終わる。これこそ「カナリヤ」で作者が伝えたかったことであると思われる。

以上