『止まっていた時計が今動き出した』
作詞:坂井泉水 作曲:中村由利 編曲:徳永暁人
初収録:オリジナル10thアルバム「止まっていた時計が今動き出した」(2004年1月28日発売)
タイアップ:テレビ朝日系ドラマ『異議あり!女弁護士大岡法江』主題歌
歌詞(アルバム盤)
また巡り合う春を待っている 時よつづれ
そして人は皆 僅かな誇りと運命を感じている
此処には 過去も未来もない 今しかない
まわり道も 意味のある修行(おしえ)と気付く日が来る
きっとどこかへと つながっている
冷たい石の上を歩く 靴音が懐かしいよね
許せなかった幼い日 どうかせめて前途ある未来に...

君の胸の中に 何も持たずに今
飛び込んでいけるなら ねえいきたいよ 何処か果てまで
悲しい雨が心を濡らしてゆく
止まっていた時計が今動き出すから


君と眠る時間 他人(ひと)には見せない顔
だんだん君との思い出も薄れていくよ
悲しい雨が心を濡らしてゆく
止まっていた時計が今 動く

君の胸の中に 何も持たずに 今
飛び込んでいけるなら ねえ いきたいよ 何処か果てまで
悲しい雨が心を濡らしてゆく
止まっていた時計が今動き出したよ

止まっていた時計が今動き出すから

 

タイトルの意味
作者はアルバムおよび曲のタイトルについて、
“この「止まっていた時計が今動き出した」というアルバムタイトルですが、実はこの言葉はずっと前からあって、いつか何かの形で、例えば本の表題などで使えたらいいなあと思ってあたためていた言葉です。
今回のアルバム制作にあたり、まず最初にこの言葉をタイトルにしようと早い段階から決めていました。
評判がいいとの事だったので、楽曲というより、まずアルバムのタイトルにしようと決めました。“
と言っている。また、歌詞については
“以前から哲学など興味があって、これはちょっとそういう視点で歌詞を書いてみました” とも言っている。

「止まっていた時計が今動き出した」という言葉は“どこに”あったのであろうか。

作者は「今まで最も影響を受けた人は?」という質問に、S.キューブリック監督、ピカソゲーテを上げている。ゲーテの代表作に彼が82年の生涯をかけて完成させた「ファウスト」があり、「止まっていた時計が今動き出した」など本作品のいくつかのフレーズは「ファウスト」の影響を受けたと思われる表現がある。

ファウスト」の要約
全てを極めたはずの学者ファウストは「もし自分を現世の誘惑に負けさせるとことができたら地獄に落ちてもよい」という契約を悪魔のメフィストフェレスと結ぶ。ファウストが誘惑に負け「俺がある瞬間に向かって“まあ、待て、おまえは実に美しい”と呼んだら、きみ(メフィスト)はおれを縛り上げてもいい。それきりおれは滅びてもいい。時計が止まって、針がおちる。おれの一生が終わりを告げるのだ」。神は「人間は努力する限り迷うこともあるだろう」とメフィストフェレスが契約を結ぶことを許す。
悪魔はファウストを誘惑に引きずり込もうと引き回す。ファウストは純真な少女グレートヘンと恋に落ちるが最後は死なせてしまう。ギリシャの美女へレナと結婚して彼女は子供まで生むが、それでも誘惑には負けない。しかし最後に海沿いの土地を人々とともに埋め立て新しい土地を作る事業を始めるという幻想にとりつかれ、皆が力を合わせて行なう事業にすっかり魅せられこう叫ぶ。
「ここでは、子どもも大人も年よりも、それぞれ、危険とたたかって、すこやかな年月を送るのだ。おれはそのような人間の集団をながめながら、自由な民と自由な土地に住みたい。おれはかかる瞬間にむかって、
“まあ、待て、おまえはじつに美しい”と叫びたい」その瞬間、ファウストは賭けに負け、息を引き取る。
悪魔は「時計は止まった。」と叫び、ファウストを地獄に連れて行こうとする。
このとき神が救いの手を差し伸べ、ファウストはグレートヘンの魂とともに天に昇っていく。
(要約終)


「止まっていた時計が今動き出す」
これは、ファウストが最後には神により救われることを表している。

「まわり道も意味のある修行(おしえ)と気付く日が来る きっとどこかへ とつながっている」
ファウストの、グレートヘンの死への後悔、そして最後は救われその魂とともに再生し天国に昇る経緯を表しているかのようである。

「許せなかった幼い日どうかせめて前途ある未来へ・・・」
悪魔の企みで、五十代のファウストが二十代に若返って恋の誘惑に負け道を誤まったことを後悔しているようである。

「君の胸の中になにも持たずに今飛び込んでいけるならねえ行きたいよ 何処か果てまで」
「冷たい石の上を歩く靴音が懐かしいよね」
悪魔に連れられて町をさ迷うファウストの心象風景を表している。

さらにヘレナはギリシャ人であり、その舞台もギリシャである。作者はギリシャのイメージについて問われた時、「私はくれよんの“黄土色”をイメージします。数々の名作がギリシャ神話から生まれているように、神秘的且つ、怖さすら感じます」と言っており、何らかの影響を受けた可能性も考えられる。


作者は「哲学に興味がある」とも言っている。
たとえば、鎌倉時代曹洞宗を開いた禅僧道元がその著「正法眼蔵」の中の「有事(うじ)」という章で存在と時間について時間論を展開している。
「いわゆる有時とは、時がそのまま存在であり、存在がことごとく時である、ということである」
「世界全体に存在するありとあらゆるものは、一つにつらなりながら、その時その時の絶対生命である」
「有時には、経めぐる<経歴(きょうりゃく)する>というはたらきがある。すなわち今日より明日に経めぐる。今日より昨日に経めぐる。昨日より今日に経めぐる。今日より今日に経めぐる。明日より明日に経めぐる。このように、経めぐりは時の働きであるから、古の時と今の時とが重なり合っているのでもなく、並び積もっているのでもない」
「経めぐるということは、たとえば春のようなものである。春は、さまざまな光景を呈している。それを経めぐるというのである」

「また巡り合う春を待っている 時よつづれ」
「まわり道も 意味のある修行(おしえ)と気付く日が来る きっとどこかへと つながっている」
これらの言葉は禅宗の修行のような意味合いが感じられる。

「此処には 過去も未来もない 今しかない」
古代キリスト教神学者、哲学者であるアウグスティヌスはその著「告白」の中で次のように述べている。
「ところでいま私にとって明々白々となったことは次のことです。すなわち、未来もなく過去もない。厳密な意味では、過去現在未来という三つの時があるともいえない。おそらく、厳密にはこういうべきであろう。三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在。
じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見出すことができません。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」です。」

ロシアの文豪トルストイが時間論で「過去も未来も存在せず、あるのは現在と言う瞬間だけだ」と言っている。トルストイの表現は、仏教(禅宗)から来ているのではないか、という説がある。

作者はこのような様々な時間論に影響を受けているのではないだろうか。

一見唐突で、前後の脈絡が不明な個々のフレーズもよく見るとその根底には
「現在を大切に生きること以外に未来はない。それは再び時計を動かすことにつながる」
という作者の一貫した思いがあるように思われる。
これは、「過去にとらわれている限り、悩みや迷いが尽きることはない。未来に夢や希望を抱き、それに向けて努力することは大切であるが、それによって現在をおろそかにすると現在は存在しなくなる。現在が存在しなければ、自分は存在せず、存在しない自分は人を傷つけてもそのことがわからない。時計は止まったままである」ということでもある。

「止まっていた時計が今動き出した」というアルバムタイトル及び曲の歌詞に坂井がこめた思いは、大変に深いように思われる。

以上