『心を開いて』
作詞:坂井泉水 作曲:織田哲郎 編曲:池田大介
初収録:18thシングル(1996年5月6日発売)
タイアップ:ポカリスエットCMソング
歌詞(CD&DVD04)
私はあなたが想ってる様な人では
ないかもしれない
でも不思議なんだけど
あなたの声を聞いてると
とても 優しい気持ちになるのよ

このままずっと 忘れたくない
現実(いま)が想い出に変わっても
言葉はないけど きっとあなたも
同じ気持ちでいるよね

人と深くつきあうこと
私もそんなに得意じゃなかった
でも あなたを見ていると
私と似ていて もどかしい
そういう所が たまらなく好きなの

ビルの隙間に二人座って
道行く人を ただ眺めていた
時間(とき)が過ぎるのが 悲しくて
あなたの肩に寄りそった

My dream Your smile
忘れようとすればする程 好きになる
それが誤解や錯覚でも…
心を開いて

どんなときも あなたの胸に
迷わず飛び込んでゆくわ
Your dream  I believe
ときめいてる 心を開いて

 
本作品について作者は、
“ほんのちょっと心を開いたら、人に対しても違った見方ができるんじゃないか?そんな思いを自分自身にも言い聞かせてレコーディングに臨みました。”(Music freak magazinexol.143 2006年10月号)
と言っている。

作者の思いを詞を追いながら順にみていきたいと思う。

“あなたの声を聞いてると”
この表現は、二人は空間的には相手の声を聞くことができる距離にいるが、二人きりで話をするほどの個人的な親密さには至っていないことを表している。相手の声が聞こえるとは、相手が誰かと話しをしていることになる。その誰かは一人なのか複数なのか。
もし相手が一人の異性であれば、主人公の片想いはいっそう募るかもしれない。あるいは嫉妬の感情に苦しむかもしれない。相手と主人公と二人で話をしていても、たとえば、上司と部下、顧客対応、個人面談など社会的関係からの会話の場合は、片想いが恋愛に発展するかどうかもわかない段階かもしれない。
複数の時、主人公がその中に含まれている場合、たとえば教師と生徒という関係であれば、生徒の一人である主人公が教師に片想いをしていることになる。含まれていない場合とは、隣りのグループ、隣りの教室などで片想いの相手が話すのを聞いている場合が考えられる。

このように片想いの相手との関係の可能性は多岐にわたり、聴く人それぞれによって異なることになる。
“あなたの声を聞いてる“ という、さり気ない表現が、聴く人の想像力を掻き立てる。

“とても 優しい気持ちになるのよ”
どのような関係であれ、“とても 優しい気持ちになる” のは主人公の片想いの深さを表しているようである。聴く人それぞれの想いで関係を想像すると、嫉妬に苦しむような状況を想定する人がいるかもしれないが、その場合でも、それに捉われるよりは “とても 優しい気持ちにな”ってほしいという、作者の願いであるかもしれない。

“このままずっと 忘れたくない
現実(いま)が想い出に変わっても“
ここで主人公は未来を見ている。未来のある時点で現実(いま)の状態が変わった時に初めて現実(いま)が想い出に変わる。その新たな状態において“現実(いま)のままずっと忘れたくない”ということは、片想いのまま忘れたくないということ、すなわち別れを意味している。
“現実”を“いま”と読むのは、単に“現在”をいうのではなく、現在の状態、片想いの状態を表わしたいからである。
歌詞であるから、聴く人は“いま”としか聞こえないので、表記にこだわる必要はなく“今”でも“現在(いま)”でも構わないはずである。しかし作者は、歌うことによって、“現在の状態”、すなわち“切ない片想いの状態”を伝えるためには、表記は“現実(いま)”以外にあり得ないと考えたのであろう。
このようにして歌われる“現実(いま)”は聴く人の心に必ず伝わるという熱い思いが現れている。
日本語の文字と表記法は、漢語のように表意文字だけではなく、また西洋語のように表音文字だけでもなく、漢字とかなという両者が混在していることに特徴がある。作者は日本語の長い歴史の中で生み出されたこの特徴をうまくとらえ活かしている。
揺れる想い」の表記で、 “体中感じて”ではなく “体じゅう感じて”としたことも同じである。

“人と深くつきあうこと私もそんなに得意じゃなかった”
ここからを2番とすると、その特徴の一つとして、“得意じゃなかった”“ただ眺めていた”“あなたの肩に寄りそった“と過去形が使われていることである。一方、“もどかしい”“たまらなく好きなの”と現在形も使われており、両者が混在していることである。
このような使い方について、「日本語を翻訳するということ」(牧野成一著 中公新書)の中で次のような指摘があり参考になると思われる。
「物語の文章の中で過去のことを物語りながら、過去形が現在形に替わることがあるのは、日本語学の中では早くから気づかれています」
「人は物事を同じ角度から同じ解釈で見ているとは限りません。作家が過去形や現在形を選ぶときにその作家の捉え方が現れるわけで、読み手はその捉え方をつかまなければ作家の心理の襞は読めないのです」
「英語のように表現の対象とできるだけ距離をおいて客観的に過去時制で捉える言語に対して、日本語のように表現対象にあるときは客観的、あるときは主観的に時制を使い分けているわけです」
想いを伝えることができない不器用な自分、しかしそうであるがゆえに相手も人との関係において不器用であることがわかる。そういうところが愛おしいが、かといってどうすることもできない、そのもどかしさを、
過去から現在、未来へと時間の流れの中で、ときに主観的に、ときに客観的に見つめている。

“ビルの隙間に二人座って
道行く人を ただ眺めていた
時間(とき)が過ぎるのが 悲しくて
あなたの肩に寄りそった“
今まで時間軸を背景に主人公の内面を伝えていた詞は、一転して空間の描写に変わる。視点は外から二人の関係を見ることになる。主人公の想いがどんなに募っても、“ビルの隙間”という無機質の灰色の空間、無表情に通り過ぎていく人々、空しく過ぎてゆく時間、があるだけである。できることはただ、あなたの肩に寄りそうことだけ。
主人公の想いは、“あなたの声を聞く”という聴覚から生まれる想いに加えて、“肩に寄りそう”という触覚、体感から生まれる想いも加わり、その想いはいっそう募る。

このように何気ない表現で主人公が自分をもどかしく思っていることを、直接に言葉で表現するのではなく、時間と空間の中で、感覚の世界の中で浮かび上がらせ、それは聴く人の心の中のそれぞれの想いに凝縮されてゆく。

“忘れようとすればする程 好きになる
それが誤解や錯覚でも…
心を開いて“
ずっと抱いていた片想いの状態はここで一気に転換し、主人公は自分の想いを伝えようとする。
ここで使われている、誤解、錯覚という言葉は漢語由来の日本語であり、漢字を音読みしている。本作品は、冒頭から最後まで殆んどが大和言葉が使われている。漢字で表記されていても、発音は訓読みであり、“現実”や“時間”という通常音読みする言葉にもわざわざ“いま”、“とき”、大和言葉で発音している。漢語で唯一あるのは不思議という語だが、これは日本語にすっかりなじんでいて漢字の発音特有のごつごつした力強さは感じさせない。
また“My dream Your smile”と英語が使われているが、後に出て来る“Your dream  I believe”ともいずれも対句的表現であること、いずれも日本語の母音でドリーム(mu)、スマイル(ru)、ビリーブ(bu)とuという脚韻を踏むことにより耳で聴いた時の外来語からくる違和感がやわらげられている。
このような中で、誤解、錯覚という強い音調の言葉が現れると、それまで穏やかであった海面にごつごつした岩がそびえているような感覚がする。また大和言葉が人の感情や行動を五官などの感覚で素直に伝えるのに対し、誤解や錯覚という抽象的な概念を表す言葉である。

なぜこのような言葉遣いをしているのか。主人公の片想いは、相手に伝わっていない。これは二人の間に何らかの外的な困難さや障壁があるためではない。ロミオとジュリエットのように双方の思いは募っても周囲の環境がそれを許さないというのではない。障壁は主人公の心の内部にある。
漢語由来の硬い音質の“誤解”や“錯覚”という言葉は、主人公の心の中にある壁の高さや固さを表しているかのようである。

安西冬衛の「春」という詩では、
“てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った”
と、生まれてまもない蝶が荒々しい海峡を渡っていった様子を「てふてふ」という大和言葉とゴツゴツした漢語の塊のような「韃靼海峡」との表記上および発音上の対比により浮かび上がらせている。

中原中也は、フランスの詩人ランボーの「幸福」という詩を
(冒頭部分)
“季節(とき)が流れる、城塞(おしろ)が見える、
 無疵(むきず)な魂(もの)なぞ何處にあらうか?“
と訳している。「季節」の横にルビ文字「とき」を振り、「城塞」には「おしろ」と振って読ませるなど、聴覚、視覚の両面から漢語のもつ限定的で強い語感を避けて、ひらがなの大和言葉に置き換え、そこに意味を持たせようとしている。

平家物語の冒頭はつぎの有名な文章をもってはじまる。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ“
前半は仏教用語を中心とした漢語、後半は大和言葉と巧みな組み合わせになっており、滅んでいく平家と荒々しい源氏を対比させているかのようである。

このように漢語は、自然の荒々しさや人工の構造物あるいは歴史の流れといった人間の外部にある、個人の力を超えたものを表すのに主に使われてきたのに対し、本作品では個人の内面の葛藤を表すことに使われている。
これは、主人公の内面にある壁を超えるには強い意志と決断が求められ、それを乗り越えて新しい世界に飛び込もうという主人公の決意の強さを表しているともいえる。

“心を開いて”
最初から述べて来た相手への想いをひたすら語るストーリーは最後に自らの意志と決断を示す。

単に個人の想いを述べるのではなく、何気ない言葉を使いながら、聴く人それぞれの心のなかにある想いに訴えるような表現により、本作品は、時代と場所をこえて普遍的な価値を帯びているのではないだろうか。

以上