『負けないで』
作詞:坂井泉水 作曲:織田哲郎 編曲:葉山たけし
初収録:6thシングル(1993年1月27日発売)

歌詞(CD&DVDCOLLECTION01)
ふとした瞬間に 視線がぶつかる
幸福(しあわせ)のときめき 覚えているでしょ
パステルカラーの季節に恋した
あの日のように 輝いている あなたでいてね

負けないで もう少し
最後まで 走り抜けて
どんなに 離れてても
心は そばにいるわ
追いかけて 遥かな夢を

何が起きたって ヘッチャラな顔して
どうにかなるサと おどけてみせるの
“今宵は私((わたくし)と一緒に踊りましょ”
今も そんな あなたが 好きよ 忘れないで

負けないで ほらそこに
ゴールは近づいている
どんなに 離れてても
心は そばにいるわ
感じてね 見つめる瞳

負けないで もう少し
最後まで 走り抜けて
どんなに 離れてても
心は そばにいるわ
追いかけて 遥かな夢を

負けないで ほらそこに
ゴールは近づいている
どんなに 離れてても
心は そばにいるわ
感じてね 見つめる瞳


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「負けないで」

負けないことと勝つことは同じではない。勝つことは、何らかの対象を必要とし、その対象を倒す、すなわち勝つという意思をもつことから始まる。一方が勝てば他方は敗ける。勝者に対して必ず敗者がいる。勝てば勝つほど敗者の数は増えてゆく。勝敗にこだわる限り、一人の勝者に対して敗者の数は限りなく多くなり、そこにあるのは死屍累々とした荒涼とした廃墟である。

これに対し、負けない、ということは対象を必要としない。他者に勝つことによってしか得られない正義は正義ではない。
宮沢賢治は、その詩の中で、
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ~」
と言っている。
雨に負けないとは、雨が降るのを止めることではない。雨は、それに負けない、という意思を引き起こす要因ではあるが、対象ではない。要因を倒すことが目的ではない。雨は、“丈夫ナカラダ”を持つことによってそれを乗り越えようとする意志の要因である。賢治の詩は雨風や季節といった自然現象をあげているが、負けない、という意思を引き起こす要因は自然現象に限る訳ではない。時代や社会環境、家族や恋愛といった人間関係など人を取り巻くものはすべてこの意思の要因たりうる。
ときには不条理なこともある、人を取り巻く外部に起こる様々な現象を直視し、勝つ対象としてではなく、自らの内部に向けた目を向け、乗り越えようとする意思の要因としてとらえることが、負けない、いうことではないだろうか。

勝つことをどれほど追究し、成功したとしても、それで負けない、ということに至るわけではない。勝つ、ことから、負けない、ことへ行くには、意識の飛躍が必要である。
ベルクソンは、家族愛、祖国愛、人類愛という3つの“愛”をあげ、
「われわれは三つとも愛(アムール)という概念のもとへひとまとめにし、同じ言葉で言い表しうるのである。」が、「初めの二つの感情(サンチマン)と第三の感情との間に性質の違いを認める。はじめの二つは選択を、したがってまた除外を含意していよう。つまり、はじめの二つは争いを起こすもとになりかねない。また憎悪をも除外せぬものである。ところが第三のものはひたすら愛である。前二者は自分を惹きつける対象へまっしぐらに進んでゆき、そのうちへ腰をすえる。後者は対象の魅力には屈しない。これはもともとその対象を目指していたのではない。それはさらに遠くへの突進だった。そしてそれが人類に達したのは、どこまでも人類を越えることによってだった。」と言っている。(「道徳と宗教の二つの源泉」森口美都男訳)
彼はこれを、彼の言う生命の創造と進化の原理である"élan vital"(エラン・ヴィタール)「生の飛躍」に対し、"élan d'amour"(エラン・ダムール)「愛の飛躍」と言っている。

作者はさらにその先をみている。他者を倒したり、勝つことを目的としなくとも、みずからの苦しみ、悲しみを克服し、負けない、ための努力が、しらずしらずのうちに他者を傷つけたり、あるいは他人を手段としてしまうことはないだろうか。それは負けないことではない。負けないこととは、他者もまた苦しみ、悲しみを乗り越えようとしていることに共感することである。他者への優しさを忘れないことである。勝者は一人しかいないが、負けない者はひとりではない。負けないことの輪をひろげていくと、自らもまたその輪の中にいることに気づくであろう。そこにはもはや勝者も敗者もいない。
道元は、“同事”ということを説いているがそれは、「勝者と敗者の垣根はいずれ消え、同じになるという教え。」(立松和平)であるという。
太宰治は、“優”には優良可、優勝という力の優劣を示す熟語もあるけれど、“優しさ”とは、人偏に憂うると書くように、人のわびしさ、つらい事に敏感なこと。と言い、さらに「そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。」と記している。
作者は、悲しみや苦しみを、自分ただ一人のものとしてではなく、おなじ悲しみおなじ苦しみをもつ人人のこととして語っている。このため、性別や年齢や立場にかかわらず、また時代や場所にかかわらず、多くの人に愛されており、未来においても愛され続けるであろう。

作者は、本作品に込められたそのような思いを、様々な言葉や組み合わせから立ち上がってくるイメージで伝えようとしている。それを見ていきたいと思う。


「ふとした瞬間に 視線がぶつかる」
作者自身の言葉によれば、この曲は、恋人である相手の男性が主人公を選ばずに夢を追いかけることに決めた、ということが前提となっており、その意味では“失恋ソング”である。

しかし、作者は、物語を単に伝えるのではない。それは、冒頭の「ふとした瞬間に 視線がぶつかる」から始まる、歌詞の文体(時制)によく表われている。通常、ストーリーは助動詞の「た」や「だった」などの過去形で語られる。しかし本作品は、冒頭の「ふとした瞬間に 視線がぶつかる」をはじめとして、{~る}で終わることの多い現在形で表わされている。過去形をタ形、現在形をル形ということもある。物語を過去形で表わせば、過去から現在に至る予定調和的な物語となるが、現在形で表わす限り、未来は見えない。作者はそのような状態の下での、主人公の感情や想いを、そして決意と意思を伝えようとし意識して現在時制を採用している。それは、我々が常に置かれている状態、すなわち時間に捉われない状態あり、そこに臨場感や、主人公への共感が生まれる。
このような表現方法は他の分野でも使われている。三好達治の詩「大阿蘇」は、

「雨の中に馬がたってゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたってゐる
雨は蕭々と降ってゐる
馬は草をたべてゐる」

ではじまり、

「ぐっしょりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは静かに集まってゐる
もしも百年が この一瞬の間にたったとしても 何の不思議もないだらう
雨が降ってゐる 雨が降ってゐる
雨は蕭々と降ってゐる」

で終わる。これについて「現在進行形の繰り返しによって、この情景には時間がないことが強調される。それがこの詩のテーマなのだ。」とドナルド・キーンは評している。「負けないで」も同様であると思われる。


パステルカラーの季節」
パステルカラーの季節とはいつを指しているのだろうか。自然界の季節を指している場合、それをどの季節と捉えるかは、人によってそれぞれ異なり、特定することはできない。
また、作者が、“季節”という言葉を使う場合は、心の有り様を、あるいは人と人との関係の状態の変化に伴う心の有り様を表していることが多い。どのような状況の場合にパステルカラーの季節と感じる方は、人によって千差万別であり、これも特定できない。
このように“パステルカラーの季節“という何気ない言葉は一見時季を特定しているようであるが、実際は本作品を聴く人の置かれた状況によってそれぞれ異なり、いつ、どこでも、自分のことを言っていると感じられ、季節、時代、年齢などの時間を超えて普遍的な意味をもつことになる。


「最後まで走り抜けて」
作者は、当初“あきらめないで”とあったものを“走り抜けて”変えている。これにより、詞に動きが生じ、視覚的なイメージも生まれる。
与謝蕪村の俳句に
月天心 貧しき町を通りけり”
というのがある。天の真上にかかっている月が照らす貧しい町並みを通り抜けていく情景を巧みに表している。通る、という言葉によって句に動きができる。走り抜ける、も同じである。何でもないような表現であるがいずれも推敲に推敲を重ねて初めて生まれてくる表現である。

三省堂は高校生用の英語の教科書(MY WAY)(2014年初版)で「負けないで」を採用しており、このフレーズについて、 “Don’t stop until the end”(最後まであきらめないで)を“Keep on running until the end”(最後まで走り抜けて)に変えた、それは、作者が、“This sounds more positive” (その方がより前向きに響くから)変えた、と説明している。

長くなるが、「負けないで」を取り上げた発行元の三省堂のコメントを紹介する。
「メロディーと共に流れてくる歌の歌詞には、人間の心に希望や勇気を与えてくれる強い力があります。(中略)
自分の好きな歌をひとりそっと心の中で口ずさむことによって、くじけそうな体の中から不思議に力が湧いて来ることを経験された人は多いことと思います。このような歌は世の中にそうたくさんはないと思いますが、その一つがZARD坂井泉水さんが作詞した「負けないで」という曲です。この曲は約20年間色褪せることなく今もって若者の間で、“人生の伴走歌”として歌い継がれてきています。
その秘密は何かと言いますと、それは坂井泉水さんが何度も何度も繰り返し繰り返し練り直して完成させた歌の歌詞にあります。打ち萎れた心、挫折感を味わった心の状態の時、ひとりそっと口ずさむことによって、自分の味方になっていっしょに人生を走ってくれる歌。その歌詞が自分を励ましてくれ、くじけそうな気持ちを振るい立たせてくれるのです。歌詞に込められたメッセージの受け取り方は、その人それぞれの環境や状況によって違うかもしれませんが、人生の応援歌としての役割は誰に対しても同じです。
これらのことを、英語教育という「ことば教育」の一環として考えてみたときに、「ことば」という目には直接みえないものですが、この「ことば」そのものがもっている大きな測りしれない「魔法の力」に気づいてもらい、そして、この多感で悩み多い高校時代を強く乗り切っていってもらいたい。そのような思いを込めて、ZARD「負けないで」を教材として取り上げさせていただきました。」


「どんなに離れてても心はそばにいるわ」
このフレーズは、作者の心が空間的な距離の制約から解放され、普遍的存在であることを表している。「パステルカラーの季節」という表現で時間を超え、「心はそばにいる」という表現で、空間を超えている。
楽曲との関係で言えば、織田哲郎氏の音楽葬でのコメント「メロディーを作った側の人間としては、『どんなに離れてても』 の“どんなに『は』で切るのはおかしいだろう”と最初すごく思ったんですけど、何回か聴いているうちにそこがすごく何かいいなと思うようになってきて、やられたなと思いました。」が全てを言い表していると思う。


「追いかけて遥かな夢を」
このフレーズは一見、簡単なようであるが、歌詞全体の解釈に関わる重要な点を二つ含んでいる。

ひとつは語順である。まず、通常の語順ではこれは「遥かな夢を追いかけて」となる。英語等と違って日本語の特性として言葉の順番を入れ替えても意味が通じることがあり、かつ、言葉やフレーズを文頭にもってくると、強調されるということがある。「遥かな夢」という静止した状態を表す名詞ではなく「追いかけて」と動詞を文頭に持ってきて強調することにより、作品全体に動きがでてくる。この「追いかけて」は、「走り抜けて」と対応することにより一層強調される。この点からも「あきめないで」を「走り抜けて」に変えたことが意味を持ってくる。

もうひとつは、意味である。「追いかけて」という表現は、それ自体では意味が完結しない。
まず、誰が追いかけるのかという主語が表されていない。これは日本語の特性としてよくあげられるもので、文脈上明らかなので省略される場合と、主語を特定せず、読み手や聴き手それぞれの判断や解釈に委ねられる場合がある。
後者の場合、「追いかけて(いく)」、「追いかけて(ね)」、「追いかけて(いこう)」など後ろにもうひとつ品詞補うと明らかになってくるので、それぞれのケースを考えて見る。

「“あなた”は追いかけて(いく)」では、主人公を捨てて夢を追いかける道を選んだ恋人が主語であり、と中立的な表現で恋人の行動を叙述しているにとどまっている。

「“私は”追いかけて(いく)」では、主人公が主語となり、主人公の意思や行動を叙述することになる。

「“私は”追いかけて(いこう)」では、単なる叙述にとどまらず、新しい世界に向おうとする主人公の意思と決意を表すことになる。

「“あなたは”追いかけて(ね)」となると、主人公が主語であり、恋人に呼びかけてエールを送っていることになる。
三省堂の教科書では、
“Follow the dream you’ll catch in the end”
と英訳されており、この意味に近いと思われる。自分を捨てて夢を追っていった恋人への恨みや憎しみではなく、また恋人に捨てられて、泣いたり、じっと耐え忍ぶのでもなく、新しい夢を追いかけていく恋人にエールを送っていることになる。しかし英語に翻訳すると、分かりやすくなるが、解釈は最初から限定されてしまい、日本語の特性を生かし、様々な見方ができる表現にした作者の意図が十分伝わらないおそれがある。

主語を複数と考えることもできる。
「“私たちは”追いかけて(いこう)」では、人々に呼びかけることになる。 “私たち”に、恋人も含むと考えれば、さらに悲しみや憎しみを超えた新しい世界が拡がる。

クロード・レヴィ=ストロースは、NHKの日本への眼差しというタイトルのインタビューで
「日本語の構造は一般性から出発して、特殊性へと進みます。人称代名詞の使用をあまり必要とせず、~ もっとも一般的な帰属から、もっとも特殊なものにまで順次降りていくことによって定義します。」

本作品では、一般性から特殊性へ主語が収れんしていく過程は、聴き手に委ねられている。自らの状況や経験にあわせて様々に解釈することによりその世界を広げていく。

さらに「あなた」という呼びかけは、本作品のストーリーの登場人物へのよびかけであるばかりでなく、歌い手から聴き手への呼びかけにもなる。聴くことは、自分に呼び掛けられることになり、それは歌い手から聴き手に対するエールとなる。
歌う人と聴く人との間に歌詞を、音楽を通じて共感が生まれ一つの絆で結ばれる。聴く人はそれを歌うことにより歌う人にもなり、時代、性別、年齢、立場などを超えて、共感の輪が広がっていく。

ロラン・バルトは、
 「ある作品が“永遠”なのは、さまざまな人に唯一の意味を強いるからではなく、ひとりの人間にさまざまな意味を示すからである。」
「テクストに永続的な力を与えるのは、そのテクストの永遠の単一な意味ではなく、むしろ、さまざまな時代にわたってさまざまな人々にさまざまな意味を示唆するテクストの能力である。」
と言っている。これは本作品にも当てはまるであろう。タイトルの「負けないで」も同様に様々な解釈が可能である。

 

「なにが起きたってヘッチャラな顔して どうにかなるサとおどけてみせるの」
困難なとき、逆境にあるときは、その状況が一見えているという意味では、乗り越えていく道もまた見えている。しかし、何が起きるか分からない、予測できない、あいまい、不安定、不確実な状況にあるときこそ、楽観的な前向きな見方を持ち続けること、それが負けない、ということである。
ヴィクトール・フランクルは、その著書「夜と霧」の中で、ナチス強制収容所での明日の命もわからない過酷な生活を生き延びるための方法のひとつとしてユーモアが大切であったことをあげ次のように述べている。
 「ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。」
“なにが起きたってヘッチャラな顔して どうにかなるサとおどけてみせる”とはまさにこのことであろう。


「今もそんなあなたが好きよ 忘れないで」
あなたはまた私でもある。忘れないで、という呼びかけは、自分自身に対する呼びかけであり、聴く人に対する呼びかけである。自分自身の思いや、心の有り様をたいせつにしていつまでも忘れないで、とエールを送っている。

法隆寺を建立した聖徳太子に「不忘(ふもう)」という言葉がある。法隆寺の大野玄妙管長は、「これは文字通り「忘れないで」という意味」であり、「理想を実現することより、実現するための努力を片時も忘れないことが一番大切だということを意味する」と説いている。
これは、本作品で作者が伝えたかったことと同じであろう。

 

「私はいつも本当に言葉を詞を大切にしてきました。音楽でそれが伝わればいいなと願っています。」という坂井の思いが本作品にもよく現れている。

 

以上