ZARDの歌詞について
<目次>
1. 総論
2. 個別の曲について

<本文>
1.総論
1-1)物語の展開と視点
作品には、基本的に、時間と場所とそれを舞台とした物語が備わっている。それは現実の世界の場合もあれば作者の心の中に組み立てられたもので虚構の世界の場合もある。作者はこの自ら構築した世界の中で自在に物語を展開していく。パスカルが「想像力はひとの心のうちで無限に増殖します」と言っている通りであり、作者自身も“想像力の中で世界は ぐんぐん 膨らんでゆく”(『息もできない』)と言っている。作者は、この物語の中で人と人との関係性の変化をつづっていく。「時間はまさに主体と他者の関係そのものである」(エマニュエル・レヴィナス)。空間も同じであろう。時間と空間という舞台を構築した上で物語は語られる。

作者は、物語の中の数々の事象にたいして、単一の視視点で眺めるのではなく、視点を変えて見つめる。ひとつの現象、ひとつの事象を様々な視点から眺めることに特徴がある。あたかもピカソなどにより20世紀芸術の出発点となった、ものを見えるように描く、機械的な遠近法で描くというそれまでの絵画の大原則を否定したキュビスムのようである。
視点を変えるとは、物語を一人称ではなく、登場人物全体を俯瞰するような視点で、世阿弥のいう「離見の見」-「自らを観客であるかのように見ている役者の視線」という目で描くということにつながる。ルソーが「人間を理解しようと思うならば、まずは遠くから見つめなければならない」と言った通り、客観的に視線を変えることにより立体的な叙述となり、登場人物の移り行く感情や物語を立体的に描き出す。
また、視点を変えるとは、視点の主体が変わることにもつながる。物語の主人公の視点が他者の視点に変わることでもあり、自己を客観的に見ること、すなわち自己を相対化することになる。日本語の特徴との一つとして主語が省略されることが指摘されるが、これは多くの場合文脈で主語が明らかであるので省略されるのである。しかし視点の主体が変わることは、主語と目的語が入れ替わることにつながる。「愛している」は「私はあなたを愛している」だけではなく「あなたは私を愛している」ともなる。

作者が注目するのは「私」や「あなた」そのものよりも、相互の関わりあいであり、その変化である。物語はその変化の在り様を描く。このため時には登場人物の関係がすぐ分からないこともあるが、次第に登場人物の存在の切実さと関係性が迫って来る。

時間について離れて見るとは、過去、現在、未来の視点で見ることであり、物語の舞台は過去にも、現在にも未来にも置かれ、その間を自在に行来する。過去を振り返り、その過去を現在の目で捉え、その関係を未来-現在の位置に投影して、現在を相対化している。さらに“あの日見たデ・ジャ・ヴと重なる影”(眠れない夜を抱いて)で過去の過去、“十年後のアルバムを いつか開くように”(お・も・ひ・で)では、未来の未来に至るまで時間は広がる。まさに「詩人を束縛する時間はない」(ゲーテファウスト」)。世阿弥が創始した現在と過去という二つの時間層から構成されている「複式夢幻能」のようでもある。
空間についても、ふるさとの町から都会や海、ときには地球を離れ宇宙からの視点で描くこともある。“青い地球の ちっぽけな二人”(『運命のルーレット廻して』)、“宇宙の底に 二人生きてる”(『My Baby Grand~ぬくもりが欲しくて』)。このように空間=場所も相対化され、物語に応じて様々な舞台が出現する。
時間と空間を行き来し、過去へのフラッシュバックやズームインあるいは遥か宇宙から地球を眺めるなどはあたかも映画のシーンのようでもある。

登場人物、時間、空間はいずれも相対化された物語の中で相互に交錯して複雑な様相を示す。“あれから ぼくらは 出会った” (『時間(とき)の翼』)のように過去と未来も交錯する。平安朝の歌人が「未だ逢わざる恋“を歌に詠んだようでもある。“まだどこかで あなたを待ってる”(『サヨナラ言えなくて』)の“どこか”は、現実の場所=空間ではなく、心の中にある。“君と出会ったとき子供の頃 大切に想っていた景色(ばしょ)を思い出したんだ”(『DANDAN心魅かれてく』)は、現実と心の中の時空間の相互作用が描かれている。
ついには異界からの視点としか思えないこともある。それは天と地、この世とあの世、生と死を表しているようにも思われる。それは二つの世界の境界の物語でもある。境界は境(さかい)であり古語で坂(さか)に通じる。坂の向こうの世界、声は聞こえるが決して見ることのできない二つに引き裂かれた世界、そこでは“すべてが現実 すべてがまぼろし”(『フォトグラフ』)となる。この悲痛な思いは、“夢かと思いなさんとすればうつつなり、うつつかと思えへばまた夢のごとし”(平家物語)のようでもある。
イギリスのロックバンドQueenのFreddie Mercuryは少数民族の移民の子としてまた当時としては社会的に認知されないゲイであること等の差別に苦しんだ。『Bohemian Rhapspdy』の冒頭の一節は、
“Is this the real life-Is this the fantasy- “(これは現実の人生なのだろうかー幻想にすぎないのか―)
であり、引き裂かれた自己を見つめざるをえない心の叫びが共通している。

1-2)創作の源泉と構築
このような物語の骨格は、個人的な経験や友人など身近な人の話、さらに古今東西の詩や小説、音楽、演劇、映画などの芸術作品からなっている。
作者の個人的な経験については、少女期から学生時代を経て、都会に出て社会人に至るまでの経験、その間の友情や恋愛、出会いと別れ、成功や挫折、成長の過程、さらに未来への期待や夢などを、その内面から見つめ描かれている。
作者は影響を受けたあるいは好きな芸術家として、シェークスピアゲーテニーチェ石川啄木、F・サガン岩館真理子(漫画家)、スタンリ-・キューブリックピカソなどを挙げている。これらの影響を受けたと思われる内容、構成、表現が見受けられる。
シェークスピアについては「中期以降作風が変わって暗くなっていく、その理由を知りたい」という意味のことを言っている。これは中期の作品と言われる「ジュリアス・シーザー」以降人の心の内面(この場合はシーザーを暗殺するブルータスなど)を深く描くようになっている点を言っていると思われる。なぜ突然この様に作風が変化したのか、この時期に彼の身に何か重大な変化が生じたのか、専門家の間でもいろいろ議論があり決着はついていない。作者は、2002年からの作品を「ZARD第二章」と言してより内面性を深く追求するようになり、この点でも影響を受けた可能性がある。
しかし作品の本質的な魅力は、そのような素材にあるというよりも、それらをいったんすべて作者が自己の中で消化し組み立てなおし、普遍的な物語へと創造している点にある。個人的な悲しみ、苦しみを物語る場合でも、自分一人ではなく、同じ悲しみ同じ苦しみをもつ人々の物語として歌う。作者は個人的な特定の経験や個々の特定の物語にとどまるのではなく、それを契機として、人間と事物の存在内容を問い直すような普遍的な問題の探求へ向かっている。そこには作者の人生観も投影されている。“古い日記を読み返してみると他人(ほか)の人の話のようで”(『淡い雪がとけて』)とあるように人生観が変化したときには素材は同じでも新たな物語が生まれる。
 
1-3)人を描く
作者は登場人物の心の中でも、過去と現在と未来、あちらとこちら、現実と幻想、生と死が、ときには共存し、ときには引き裂かれていることを直視し、それが心に及ぼす作用に大きな関心をもっている。物語の中で、人の心は様々に変化していく。作者の視点は物語の出来事や登場人物の行動よりも、その内面を洞察し描くことである。登場人物相互の関係性とその変化が内面からの視点で描かれる。

様々な視点から客観的に物語を語るとは過度な感情に陥らないということでもある。様々な感情を見定め、はっきりと感じ、かつそれに溺れず、負けずに一歩引いたところからすべてを等しく、同じレベルの出来事として言葉の姿に整えて描いている。押しつけがましさとは最もっとも遠いところにある。それは決して単なる傍観者としてあるいは観察者として見るということではない。物語中の登場人物を優しく暖かく見守っており、その底には、深い人間愛の涙を、かなしさを湛えているようにみえる。

人と人との関係はさまざまに変わっていき、心もその状況のなかで常に変わっていく。作者はこの変わっていく様の哀しみや喜びを静謐な言葉を紡ぐことにより静かにそして暖かく見つめ描き出す。平坦にさりげなく、日常的な生活風景や、出会いと別れ、傷つけ合う悲しみ、再会などの様子を描いている。内面への深い洞察力により、人の心が変わっていく繊細な心理を描き出している。その中で、“少年の瞳をずっと忘れないでね”(『不思議ね』)と、みずみずしい「少年の心」、アリストテレスが「哲学の始まり」とよんだあの驚異の感覚、を失わずにいること、“夢を捨てるのが大人なら 大人になんかなりたくない”(『愛が見えない』)、だから“どんなに不安がいっぱいでも 真っすぐ自分の道を信じて”(『マイフレンド』)いくことを呼び掛ける。

ゲーテは「人間は内面から生きなければならない、芸術家は内面から制作に向かわなければならない」と言った。映画監督の小津安二郎は「喜怒哀楽だけを、一生懸命写し取ってみても、それで人間のほんとうの心、気持が現せたとは言えない。」だから彼の至高の目的は「人間を描く。それも喜怒哀楽の表にでないやつを」だった。作者も同じようである。

人間と人生を直視し、かつ外部に向けていた目を自らの内部に向ける。現実の世界を、偶然と運命に翻弄されるような悲しみや挫折といった人生の不条理をもあるがままに受け止め、嬉しいときは素直に喜び、哀しいとき孤独なときも傷ついたときもなお前向きに今を生きること、この時に初めて哀しみを乗り越えることができ、希望が生まれる。希望は外にあるではなく、内面から創造していくものである。

このように人生を前向きに、あきらめず未来に夢と希望をもって生きるということは未来に夢を託するあまり現在をないがしろにしたり犠牲にすることではない。それは人を幸福にしないことを作者は知っている。
パスカルの言うように、「われわれにとって現在は決して目的ではない。過去と現在とは手段であり、ただ未来だけが目的である。われわれは、決して現在生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなる。」のだから。その中で、自分の人生の現在を大切に精一杯生きることが未来につながる、と作者はいう。

アウグスティヌスは、「三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在。じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見出すことができません。過去についての現在とは“記憶”であり、現在についての現在とは“直観”(直接に目前のものをまのあたりに見つめること。)であり、未来についての現在とは“期待”です。」と言っている。すべては自己の魂の内にある。“此処には 過去も未来もない 今しかない”(『止まっていた時計が今動き出した』)のだから。
これは「過去や未来に執着しているから苦しみがあるけれど、実は過去も未来もなくて、常に“今この瞬間”しかない。それに気づくことが大切」と説く、仏教の教えに近いのかもしれない。

1-4)孤独と愛
作者は孤独を一人の人間にあるのでなく、人と人の間の、その心の間の距離にあると捉える。仲間といても、大勢の中にいても、都会にいても孤独は避けられない。フランスの詩人ボードレールは次のような孤独の感情を書きとめている。「子どもの頃からの孤独の感情。家族とともにいても-とりわけ、仲間たちの中にあって、-永遠に孤独の運命の感情」。
作者も同じ感覚である。“大勢(なかま)の中に居ても 孤独を感じていた…”(『君がいたから』)。熱い友情を歌う作品であってもその中には、“ひとりでいる時の淋しさより二人でいる時の孤独の方が哀しい”(『マイフレンド『)という感情も描いている。

作者はともすればネガティブに陥りやすいこの孤独という感情から心を開いて、他者とつながろうとポジティブに考え行動しようとする。しかし、そのような努力は、自分の人生を生きていく途中で、意識的にあるいは無意識のうちに他者を傷つけてしまうこともある。“ドアを開けて中に入ろうとしても 入口が見つからなくて 誰かを傷つけた…”(『君がいたから』)。あきらめず前向きに生きようとすればするほど人を傷つけることもあることを作者は痛切に感じている。他者とすべてわかりあいたい、と思う。しかしそれがたいへんに困難であることに作者は気付いている。“どんなに情熱 かたむけてもわかりあえない人もいる”(『少女の頃に戻ったみたいに』)こともあれば、“自分の知らない君を見て一瞬怖くなる”(『夏を待つセイル(帆)のように』)こともある。

2017年ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの受賞理由についてスウェーデン・アカデミーは「世界とつながっているという我々の幻想の下に隠された闇を明るみに出した」と説明している。この闇から逃れる術はあるのだろうか。それともあきらめるしかないのか。あきらめるとは、ネガティブなイメージがあるがもとは仏教語で本来の意味は「明らめる」つまり自分が出会っている無常の現実を明らかに観るということである。作者は “素直な瞳(め)で 明日をみつめよう”( 『Forever』)とし、“諦めるよりも ああ 優しくなりたい”(『GOOD DAY』)という。決してあきらめない。

ドストエフスキーは、他者とどれほど議論しても分かりあえない世界を描いたが、最後に見出したのは愛による救いであった。ドストエフスキーに傾倒していた萩原朔太郎は「月に吠える」の序文で「人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。~この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。~。そして我々はもはや永久に孤独ではない。」と言っている。
たとえ“すべて分かりあえなくても”(『愛が見えない』)作者の思想の根底に流れているのもやはり愛である。

愛は正義ではない。正義にはいかなる優先順位も不可能であるのにひきかえ、愛は他者に対する優しさ、ときには他者を優先する、ということにつながる。他者を愛することにより自分も愛することができる。人との関係の中で様々に変わっていく自分、その中で、“あなたといる時の素直な自分が好き”(『Oh my love』)といえる相手との関係こそ愛である。愛とは相手の中に自分を見出し自分を生かす創造的な過程である。哲学者の三木清は「愛は私にあるのでも相手にあるのでもなく、いわばその間にある。」と言っている。“君と僕との間に 永遠は見えるのかな”(『永遠』)は永遠の愛を示している。
愛は、その対象があるかないか、見つけられるかどうか、といった商品や労働市場を支配しているのと同じ価値を計量して交換の形に従うようなものではない。機械のように取扱説明書通りに動くものでもない。“愛を計るより… 愛したい”(『この愛に泳ぎ疲れても』)という作者の言葉が何よりもそれを表している

1-5)文明社会を見つめる目
このように人をみつめることは、現代の文明社会の持つ様々な矛盾、それはときには気づかないうちに人の心に様々な影響を及ぼしときには人を傷つけることもある、にも必然的に目を向けることになる。 “今も心震わすニュースのパレード Oh! I feel so blue 偽りを知らない瞳(め)がブラウン管からこっちを見つめる なんて無力なの 彼らを救えない 私の失望(のぞみ)は小さすぎるわ”(『I'm in love』)。このような状況に対して、「文学者は何ができるのか」と声高に叫ぶ人たちもいたが、概してイデオロギー的、歴史的な観念あるいは思想からの発想であり行動であった。作者は、そのように声高に抗議の声を上げるのではなく、あくまでも人間の普遍的存在を信じ、人の心にそっと寄り添い、人々の意識を変えることから、よりよい社会に向かうことをできることを信じている。
“ハイヒール脱ぎ捨てて青い海がみたい”(『ハイヒール脱ぎ捨てて』)とは、以前の恋人に再び会いたいという純粋に個人的な思いとともに、都会に代表される近代文明社会の束縛からの自由願望でもあり、男性優位社会において美しく着飾ることが女性らしさとされる時代の一つの象徴としてのハイヒールへからの自由宣言でもある。この作品が発表されたのは1995年であり、作者は21世紀にはいって本格化してきたハイヒールの強要への抗議活動を予見している。
今までは、進学、就職また結婚や出産といった社会で広く認知された制度のルールに従って生きていくことで安定した生活が保障されていた。しかし社会の急速な変化によりこれらの旧い“価値観は吹き飛んだ”(『世界はきっと未来の中』)。作者は“今までの生活はレールに乗っていた”(『帰らぬ時間の中で』)がこれからは“ここから先はレールのない人生”(『今日はゆっくり話そう』)が始まることを明確に認識しそれを受け入れた前向きな生き方に希望をもって進もうとする。
さらに、写真、電話、映画、TVからコンピュータ、インターネットまで、近代文明の象徴ともいえる様々な技術の発展について、たとえば、デジタルデータの特徴である「忘れることができない」ことに対し人間の記憶は「忘れる」こと、すなわち「忘れられる」ことへの不安とを対比させるなど、われわれの生活や感覚に意識するとしないとにかかわらず大きな影響を与えている点にも目を向けている。

1-6)言葉と表現
このように作品は極めて多面的な要素を持っているが、これを伝える作者の使う言葉は、多くの場合日常使っている平明な言葉でありわかりやすくて明確である。一方、時には歌詞になじまないような科学的用語を使うこともある。その場面に合わせて言葉や表現を、丁寧に選択して、これを様々に組合せ工夫をして、はっきりした歌の形を作り上げる。

さらに、表現には、様々な工夫がこらされている。漢語と大和言葉の使い分けを見ると、たとえば漢語を分かりやすい大和言葉で読ませることにより、語感を柔らかいものにするとともに、限定的な意味を持つ漢語から広い意味を持つ大和言葉にするなど視点や解釈を膨らませる工夫をしている。
たとえば『フォトグラフ』では、植物と書いて“はな”と読ませる。これは単に“花”を言うのではなく、“植物”に水をやって慈しんで育てあげ“花”を咲かせるまでの過程を含んでおり、物語の奥行きは広がる。さらに育てたのは誰かは、歌詞からは明らかでない。聴く人また読む人の想像力に委ねられることになり、物語の世界はさらに広まる。まさに“想像力の中で世界はぐんぐん膨らんでゆく” 『息もできない』のである。

あるいは大和言葉を多く使う中で強調したいところを漢語で表し、意味と音の両方から際立たせることもあり、日本人が長い時間をかけて工夫してきた漢字と仮名の使い分けを引き継ぎながら新しい表現にチャレンジしている。

比喩では、たとえば、「無口なノイズ」、「切なさのハードル」、「心の冬」、「パステルカラーの季節」、「息を止めたアルバム」、「別れは粉雪」、「涙の炎」、「未来(あした)より遠い星」など。また、「眠れない夜を抱いて」、「孤独な時間抱きしめて」など、斬新な比喩も多く、これは、フランスの象徴派の詩人ランボーの詩の一節、「俺は夏の夜明けを抱きしめた」を思い起こさせる。

頭韻や子音韻など音韻の効果、オノマトペ(擬態語)、対句表現、言葉の繰り返しによるリズム感の追究などについても、さらに助詞の使い方も明治以来、多くの作家や詩人が努力してきたのと同様日本語の特徴を生かし様々な工夫をこらしチャレンジしている。
たとえば 『あなたを好きだけど』では、“あなたを好きだけど…”と繰り返した後、最後に“あなたが好きだけど…”で終わる。このような助詞の使い分けによる印象の広がりは詩においてもみられる。たとえば、三好達治阿蘇山を描いた詩では冒頭は、「雨の中に馬がたってゐる/一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたってゐる/雨は蕭々と降ってゐる」で始まり、最後は「「雨が降ってゐる/雨が降ってゐる/雨は蕭々と降ってゐる」で終わる。最後の二行が全体をより高い次元に導いている。
また、強調したいものを語頭に持ってくることができるという日本語の特徴も生かしている。“いつも輝いていたね 少年のまま 瞳はMy Friend”(『マイフレンド』)では、最も強調したい“輝いていたね”を冒頭に持ってきて印象を強めている。
『愛が見えない』では、“~ない”という表現が繰り返されているが、これは萩原朔太郎が、口語の音楽性を意識し例えば「花でもない 猫でもない 貝でもない 星でもない」
と言う工合に、重韻律を盛んに用い、アンニュイの疲れた気分を口語の音楽に書き出して見たことなどに対応するであろう。
もともと日本語には過去のことが現在形に替わることがあるが、作品においても過去と現在の時制はときに交錯する。これは、時制を使い分けることにより、たとえば客観的と主観的というように視点を変えることでもある。
また歌詞中に使われる英語についても韻を踏むなどの細部に至るまで工夫をしている。

感覚表現にも独特なものがある。聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚などのいわゆる五官による外界の認識を言葉で切り取り鮮やかに蘇らせる。箏(しょう)曲家の宮城道雄は、音で季節の移ろいを知ったと言われるが感覚は相互に密接に関わり外界を認識している。においはそのまま色であり、色はまた音でもある。
さらに、感情と感覚は密接な関係を持っており、作者はそれを掬い取る。“壊れてしまったオモチャのように色を失ってしまった”(『もっと近くで君の横顔見ていたい』)また“風の音が目を閉じると 体で聞こえるよ”(『hero』)と体全体の感覚を表現する。

人間は、観念や思想やイデオロギーより、感情や肉体的感覚のほうがずっと信頼できるといったのは、イギリスの小説家ロレンスだった。彼はその小説「チャタレイ夫人の恋人」の冒頭で“現代は本質的に悲劇の時代である”と書いている。インドの政治家ガンディーにもそうした感覚が備わっており、その肉体的な感覚で近代文明に対抗しようとした。いずれも人間の個性を押しつぶすように進む近現代社会に対するアンチ・テーゼとして感覚を捉えており、作者はその繊細な感性から感覚への認識を深めている。
さらに、フランスの小説家プルーストが、紅茶に浸したマドレーヌの味覚から不意に蘇った幼少時代のあざやかな記憶、それはそのまま「失われた時を求める」という創造的な記憶につながる、を印象深く描いた様に、感覚と記憶は分かちがたく結びついている。
作者は、都会の雑踏、交差点のざわめき、夕暮れの街並み、木漏れ日など、何気ない感覚から呼び起こされる記憶、さらにその奥にひそむ希望とか悔恨とか追憶といった精神的なものなど誰もが経験しつつ気がつかずにいるこのような感覚を、さりげない言葉で表現している。

自然現象では、春夏秋冬、昼と夜、朝と夜の光、樹々と木漏れ日、空と雲、空気、風、晴と雨、星空など人を取り巻く外界の状況と変化していく過程を繊細な表現により描き出す。巡りくる春、忍び足で近づく夏、落葉が舞い散る秋、またくる冬が登場人物の相互の関係に微妙な陰翳を刻みつけながら推移してゆく。雨について作者は「雨はエロティックでシュールなものですよ」と言っており、。

詩人でキュビスムの先導者の1人でもあるアポリネールは「視覚の真実から知覚の真実へ」と言い、一つの視点、一つの感覚で対象物を描写するという従来の方法を否定し、そのものを表現しようとした。作者も時間や空間が様々に変わっていく物語を、様々な言葉や表現方法を駆使して描き出している。

1-7)価値と評価
作者は創作活動にあたって膨大なメモを残している。また作品の原稿には多くの書き込みや追加、修正、など認められる。作品には、主語や目的語が不明であったり、唐突に一見無関係な文章が現れたり、逆説を予想させるところに順接の接続詞が現われたり、またその反対のケースがあったりするなど
また曲のリズムやメロディとの親和性を高めるために言葉を選び表現に工夫している。これらあまりにさりげなく行われているため、聴いている人はほとんど意識しないが、その意識下に深く染み込んで記憶に残り印象を高めることになる。
作者の思いが自然に言葉になって表現され歌詞として完成されているように思われがちだが、実はこれは、最後まで念入りに細心の注意を払い推敲を重ねた結果から生れているのである。作者に多くの曲を提供した大野愛果は、その歌詞について「見る歌詞でなく、聴く歌詞がそこにありました」
とコメントしている。これは作曲側から感じた点としてたいへん興味深い。

このように作品は、様々な点で複雑な構成や構文となっており、ときには物語の全体像がつかみにくい。
また物語のすべてが表現される場合は少なく、ある部分は暗示され、あるいは語られない部分もあり、全体像は聴き手の想像に委ねられる場合が多い。ときには物語の中で人と人との関係がクローズアップされ昇華されればされるほど、その具体的な内容たとえばそれが恋愛の関係なのか友情の関係なのかは聴く人自身の解釈と創造に委ねられる場合もある。詩人の萩原朔太郎の推敲振りはたいへんに激しく、極端な場合には、女性に捧げたはずの詩が室生犀星に捧げることになる場合もった、と言われている。人と人の関係を究極まで追求するとこのような結果になるのかもしれない。

しかし、物語の基礎がしっかりしているので、視点が次々と変わり、一つのモチーフが切れて、すぐ次のモチーフが始まっても内容の連続性は失われていない。そうした断片や連想は、ときに無関係と見えながら言語的連想で補強され具象化されて意識下で連想が広がっていく。このように様々な言葉やモチーフを組み合わせることで物語は語られ一つの世界を創り出す。

作者は最初から最後まで一貫してすべての作品において、アリストテレスのいう「措辞・語法(文体)の理想的なあり方は、明確であってしかも平板でないということにある」を追求し具現化している。
シングル曲とアルバム曲、A面とB面といった媒体による差は全くない。作品はCMやアニメ、ドラマのテーマ曲が多く、それらの個々のストーリーや商品戦略にそって構築されているが、それに捉われず普遍的な作品となっている。普遍的とはこれもアリストテレスによれば、「普遍的というのは、一般にどのような人間にとっては、どのようなことがらを語ったりおこなったりするのがもっともな成行であり、あるいは必然不可避の帰結であるか、ということである。」ということになる。このため、アニメやドラマや商品を知らなくても聴き手や読み手は物語について自由に想像することになり、無限に広がる未知の領域へと扉が開かれていく。作品は様々な時代にわたって様々な人々に様々な意味を示唆し聴く人の心に響く。ロラン・バルトは「ある作品が“永遠”なのは、さまざまな人に唯一の意味を強いるからではなく、ひとりの人間にさまざまな意味を示すからである」と言っている。

作者はデビュー10年を振り返った時、インタビ-でその間を「ひたすらレコーディングをしていて静かな山の中で修行をしてきたような気がする」と言っている。作詞については「陶芸と同じで何度も壊しては作り壊しては作り、ときには幾晩も寝かせて作り上げる」、またライブ会場では「私は言葉や詞を本当に大切にしてきました。それが音楽で伝わればいいなと願っています」と言っている。

ヒット作を連発していたにもかかわらず社会の風潮とかかわりなく、脚光を浴びる華やかな表舞台の生活とは無縁の生活の中で、静かに自己の内面に向きあい作品を書き続けた。平坦にさりげなく、人間へのあたたかな究極の信頼をよせ、内面への深い洞察をこめて、ときには社会の矛盾への抗議をこめて、繊細な心理を描き出している。世阿弥は」風姿花伝」で能の奥義は一時の華やかさにもてはやされる「時分の花」ではなく「まことの花」にあると説いている。作者が追究してきたのはまさに「まことの花」であろう。

浄瑠璃作家の近松門左衛門 は「浄瑠璃というものは、人形に魂を吹き込むことを第一とするので、小説の類とは違って、すべての言葉に生命をもたせることが大切である」と言っているのと同じく作者は作品のすべての言葉に生命をもたせたている。
ドナルド・キーン石川啄木について次のように言っている。「啄木の絶大な人気が復活する機会があるとしたら、それは人間が変化を求める時である。地下鉄の中でゲームにふける退屈で無意味な行為は、いつしか偉大な音楽の豊かさや啄木の詩歌の人間性へと人々を駆り立てるようになるだろう。啄木の詩歌を読んで理解するのは、ヒップ・ポップ・ソングの歌詞を理解するよりも努力が必要である。しかし、ファスト・フードから得られる喜びには限りがあるし、食欲はいとも簡単に満たされてしまう」。この啄木を作者と読み換えることは可能であろう。

いまだかつて作者のような方法で歌詞を創作した人はいない。その真の価値は時の経過とともに少しづつ明らかになってくるであろう。あまりに近くにあるために全体が見えない大きな山も離れれば離れる程その大きさが次第に分かってくるかのように。


2.個別の曲について
現在作成中で順次UPする予定です。