『GOOD DAY』
作詞:坂井泉水 作曲:綿貫正顕 編曲:池田大介
初収録:27thシングル(1998年12月2日発売)
タイアップ:ビューティーラボ「ナチュラルカラー」CMソング
歌詞(CD&DVD06)
もし翼があったなら
迷わず forgive me, kiss me, and hold me tight
あなたの元へと

失った歳月(つきひ)や愛を連れて しがらみ全部 脱ぎ捨てて

Good day, and why don’t you leave me alone
諦めるよりも ああ 優しくなりたい
Good-bye, and somebody tell me why
泣くから悲しくなるんだと

息がつまりそうなこの都会(まち)
「今日 この生活にピリオドをうつ決心をした」と
今度いつ逢えるの?と 聞けずに
言葉はいつも 心とウラハラ

Good day, and why don’t you leave me alone
諦めるよりも ああ 優しくなりたい
Good-bye, and somebody tell me why
泣くから悲しくなるんだと

もしあなたと このままいれば
きっと後悔する日がくる

Good day, and why don’t you leave me alone
諦めるよりも ああ 優しくなりたい
Good day 自分の弱さ忘れたいから
人はまた恋に落ちてゆく

Good day, and why don’t you leave me alone
雨の中を どこまでも歩いた reason to cry

Good-bye. walk away, and don’t you ask me why
サヨナラだけが 二人に残された言葉…

 

どこかに疑問が残るような詞
本作品は、イメージが捉えにくい。恋愛がテーマであるが、主人公と相手との関係がよく見えない。相手と一緒になりたいのか、別れたいのかあいまいである。
作者は作詞について次の様に述べている。
「自分なりにいろんなイメージをふくらませるのが好きなんです。例えば映画だったら結末がはっきりしていなくて、心に余韻が残るような。見終わったあとに、ハテナ?がいっぱいつくのが好きですね。だから、私が詞を書くときも、"今日は八百屋に行って野菜を買ったわ"っていう現実的なものじゃなくて(笑)、どこかに疑問が残るような詞を書いていきたいんです」
これは一般論として述べたものでありその程度は異なるが、作者の作品全般に見られる特徴である。特に本作品はそれが色濃く表れており、合理的に解釈しようとすること自体が意味を持たないと思われる。

むしろ、言葉一語一語の意味によってではなく、それらを組み合わせることで立ち上がってくるイメージや雰囲気で、思想や情感を伝えようとするフランスの象徴詩のようなものであろう。
あるいは、萩原朔太郎の詩についての吉本隆明のコメントが参考になると思われる。
萩原朔太郎の詩は、二、三行で一つのモチーフが切れて、すぐ次の行から別のモチーフが始まるという書き方になっている。そういう書き方をしても詩の連続性が失われていないと思えるようになったのは、朔太郎の『月に吠える』が最初だった。
 それ以前は、典型的には島崎藤村のように、第一連から第二連、第三連へとモチーフの区切りと流れが一目でわかるようになっている。朔太郎がそれを壊して、どう書いても詩人自身が自分の中で流れが続いていればいいはずだというふうに変わっていった。このこともまた近代詩から現代詩への転換を画するものだった。」
確かに演歌をはじめとしていわゆる歌謡曲やJPOPの歌詞はほとんどが、「第一連から第二連、第三連へとモチーフの区切りと流れが一目でわかるようになっている」のと比べてみるとその違いは明らかである。

 

諦めるよりも優しくなりたい
その中で、本作品にはひとつ重要なフレーズが含まれている。それは、サビの部分の
“諦めるよりも優しくなりたい”で、これについて、作者は次の様に言っている。

「“諦めるよりも ああ 優しくなりたい”というフレーズは、諦めるというアクションは誰にでも出来て簡単だけど、もう一回冷静になって問題を乗り越えてみよう、そしたらきっと今よりも良い日「GOOD DAY」が待ってるんだっていう気持ちがあって、それは私自身にも言っていたりするんですけどね。この詞はすごく女性的な考えで書きましたね。」

あきらめる、とは一般的には様々な思いや考え、主張等自分の考えを貫こうとしても内外の状況により断念しなければならない場合に使われ、ネガティブなイメージがある。
特に個性を尊重し、自己表現や自己主張を是とする現代においては、あきらめることを否定し、あきらめない、すなわち自己の考えを貫こうとすることがポジティブであり、是とする考えが強くなってきた。

しかし、自分があきらめないことが、他者の犠牲の上に成り立つとしたらどうだろうか。
『君がいたから』(1996年7月発売)の中に、
“ドアを開けて中に入ろうとしても 入口が見つからなくて 誰かを傷つけた…”
というフレーズがある。誰かを傷つけなければ自分の意志を貫徹することはできない。あきらめることを否定し、あきらめない、ことを貫こうとする限りそれを避けることはできない。

これに対し、作者は、“諦めるよりも 優しくなりたい” と、あきらめることを否定するのではなく、あきらめることを受け入れてその先を見ているようである。

あきらめる、とはもとは仏教語で “明らめる”、つまり自分が出会っている『無常の現実』を明らかに観る、という意味である。
良寛の言葉に
「災難に逢時節には災難に逢がよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」
と言うのがある。これは、「悲しいのは仕方がないが、まず現実を受け止めよ。その上で、なお前向きに生きていく時に初めて哀しみを乗り越える力が出てくる」、ということを言っている。

作者の「もう一回冷静になって問題を乗り越えてみよう、そしたらきっと今よりも良い日「GOOD DAY」が待ってるんだっていう気持」もまさに同じであるように思われる。

優しい、とは他人の身になって考える、情け深いこと、であり、自分や自分の考えだけに捉われるのではない。

作家の太宰治は知人に送った手紙で、「優しさ」とは、人偏に憂うると書くように、人のわびしさ、つらい事に敏感なこととし、“そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります”と記している。

やさしさは孤立して存在するのではなく、人と人との関係において存在する。自分自身に向かい合うことでもある。人はそれを愛と呼んでいる。

「愛とは、誰かのおかげで自分を愛せるようになること」 (平野啓一郎

「愛は人をして孤立と分離の感覚を克服せしめるが、しかも、人をしてその人自身となり、その本来の姿を保持するようにさせるものである。」(「愛するということ」 エーリッヒ・フロム)

優しくなりたい、とはまさに、そういう人に私はなりたい、ということであると思われる。

以上