『来年の夏も』
作詞:坂井泉水 作曲:栗林誠一郎 編曲:明石昌夫
初収録:5thアルバム「OH MY LOVE」(1994年6月4日発売)
タイアップ:
歌詞((アルバム盤)
同じ血液型同士って
うまくいかないと いうけど
私達例外ね 今も
2年前の気持と 変わらない
恋の予感は 土曜日の映画館
勇気を出してよかった…

来年の夏も となりにいるのが
どうか あなたでありますように

知り合う前の私は
“強い女”の看板 背負ってた
あなたの愛のレッスンで
弱い自分も好きになれたの
ラベンダーの匂いに 心ときめく
昨日よりもっと愛しい

来年の夏も となりにいるのが
どうか 私でありますように

時間旅行をしているみたいに
景色だけが変わってゆく

来年の夏の 二人の記念日
出合った場所でお祝いしましょう
これからもずっと となりにいるのが
どうか あなたでありますように

 

土曜日の映画館で見たものは?

“知り合う前の私は“強い女”の看板背負ってた/あなたの愛のレッスンで、弱い自分も好きになれたの“
唐突にあらわれる、強い女、愛のレッスン、のような刺激的な言葉はについて考えて見たい。

シェークスピアの初期(1594年頃)の喜劇に「じゃじゃ馬ならし」(The Taming of the Shrew)がある。これはイタリアの小都市パドヴァに住む性格が激しく強い「じゃじゃ馬」とよばれる若い娘カタリーナがヒロインの劇である。
彼女の妹ビアンカは美人で何人も求婚者がいるがカタリーナには一人もいない。このため父親は彼女に莫大な持参金を付けて先に結婚させようとしている。そこへ運よくペトルーキオという青年が現れ、持参金目当てに結婚し、紆余曲折の大騒ぎの末彼女を従順な女性に馴らす、という劇である。

女性を馴らすということで当時から女性蔑視の劇であると言われることが多い。しか中には「なるほどペトルーキオはじゃじゃ馬を馴らさねばならない。事実、甚だ過酷にそれをやってのける。だが彼は結構カタリーナのためを思っており、その言葉にもどこか控えめな優しさが残っている。確かに抑制が働いており、皮肉な言葉づかいのうちに、かえって情のこまかい優しさを感じさせる。すぐ分かることだが、彼は彼女にありとあらゆる試練を課するにもかかわらず、気位の高い女にとっては心を傷つける蔑みの言葉だけは一度も使っていないのである。」という評論もある。
カタリーナが飢えているのに、ペトルーキオだけが食事をしているというような場面はこの芝居にはない。彼自身も眠らず、断食して、カタリーナと同じ苦労をする。また暴力をふるったり酒や女や賭博に身を持ち崩すいうこともない。美人の妹を溺愛する父や世間に傷ついていたカタリーナの心は彼の献身的な努力に心を開き、その愛を受け容れて行く。

平野啓一郎氏は講演で、「自分を愛するというのは、誰かのおかげで自分を愛する、他者を経由して自分のことを好きになれるということなのではないでしょうか。おそらくそこが、自分を愛するという入り口なんだと思います。そしてだからこそ、やっぱり我々は他者を愛するのです。かけがえのない存在として。」と述べている。

カタリーナは、ペトルーキオの献身的な愛によって、弱い自分に気づき、そういう自分を好きになり、、そしてペトルーキオを愛するようになった。

“同じ血液型同士って うまくいかないというけど/私たち例外ね 今も 2年まえの気持ちと変わらない”

この言葉は、はたからみると、愛が成立しないような様々な状況でも、二人にとってはお互いにかけがえのない存在になることができる、ということを表現しているようである。

じゃじゃ馬ならし』は何度も映画、オペラ、バレエ、ミュージカルなどに翻案されその音楽と共にヒットしている。ミュージカルでは「キス・ミー・ケイト」というタイトルで(1948年初演)でヒットし、映画で最も有名なのは、エリザベス・テイラーリチャード・バートンが主演した1967年の作品である

作者がシェークスピアや映画に興味を持っていると述べている。土曜日の映画館、は古い映画を上映する「名画座」で、そこで二人は「キス・ミー・ケイト」を見たという想定から前述のフレーズが出て来たということは十分考えられるのではないだろうか。


あなたとわたし

“来年の夏も となりにいるのが/どうか あなたでありますように”
“来年の夏も となりにいるのが/どうか 私でありますように”

繰り返されるこのフレーズは、(私)のとなりにいるあなた、と(あなた)のとなりにいる私、すなわち2年前から続いている関係が来年の夏も続いているようにと祈っている。
一見すると、流れに流されているような表現で、自分の意志や行動力が感じられないとも思われる。

本作品は難病で入院・治療中だった女性ファンと夫との話を元にこの女性の気持ちになって書かれたものと言われている。この部分はとくにそれが反映されているようであり、運命に二人の絆を愛を委ねざるかのような切ない表現になっている。

しかし、人は弱いかもしれないが決して、単に運命に翻弄されるだけではない。
「人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。」(三木清 人生論ノート)
まさに二人は困難な状況の中で運命を超えて来年の夏に向かって、希望を持って進もうとしている。

本作品について作者は、2004年のライブで「私は言葉を、詞を本当に大切にしてきました。それが音楽で伝わればいいなと願っています。そんな私の思いのつまった曲を聞いてください」と言って歌っている。大切にしてきた言葉や詞の根底にあるのは、希望である。さらにその根底にはシェークスピアの劇とも通じる愛である。

1966年に来日したコルトレーンは記者会見で音楽を通じて表現するもので、何を伝えたいのか?と聞かれ、こう答えた。「“愛(LOVE)”と“努力(Strive)”です。愛が中心になります。愛は宇宙を支えているのでこの言葉がもっとも適当だと思います。」

コルトレーンと作者には音楽を通して愛を伝えたい、という点で共通しているものがあるといえる。


時間と空間を超えて

本作品は、二人が出会った2年前から来年の夏の記念日までの、すなわち3年という時間を区切った愛の形を描いている。
二人の出会った場所は、2年前の土曜日の映画館かもしれない。その時「キス・ミー・ケイト」を見たとしたら来年は何の映画を見ることになるのだろうか。そのとき二人は何を想うのだろうか。

短い期間、特定された空間の中で、二人の想いは凝縮され、一層切ないものとなっている。

それは永遠の愛に通じているように思われる。

 

以上