『ハイヒール脱ぎ捨てて』
作詞:坂井泉水 作曲:栗林誠一郎 編曲:明石昌夫
初収録:6thアルバム「forever you」(1995年3月10日発売)
タイアップ;フジTV OIOI TOKYO TASTE「Rooms」エンディングテーマ

<歌詞>
四月前の電車は
学生服も まばらで
窓の外の生活の音だけ
いつも いつも 変わらない
今なら 仕事と恋に揺れたりしないわ
あの日 あなたというホームグラウンドから
旅立った私を 許して

ハイヒール脱ぎ捨てて
青い海が見たいわ
二人でよく行ったから
懐かしいサイドシート
私の居場所はある?
あぁ 笑顔も痩せてゆく

昔の友達は みんな変わってしまったし
皮肉すぎる 今の私には
また あなたしかいないなんて

想い出を 脱ぎ捨てて
青い海が見たいわ
話したいことがいっぱい
白いTシャツ ブルージーンズ
そして素顔の私を
おもいきり 抱き締めて

後悔を 脱ぎ捨てて
青い海が見たいわ
話したいことがいっぱい
白いTシャツ ブルージーンズ
そして素顔の私を
おもいきり 抱き締めて

ハイヒール脱ぎ捨てて
あの夏の日のlast dance
もう一度 踊りたいの

 


<作品のモチーフ>
作者は本作品について、“都会の中で流されつつある自分を振り返って、何が一番大切なのかを自問自答している主人公をテーマにした”と言っている。
自問自答している主人公は作者自身の姿である。しかし作者は創作にあたって一度も自分を主人公にすることはなかった。「作家というものは、作品の中に自分が直接顔を出して語ることを、できるだけひかえなければならない。それは彼を描写家たらしめるゆえんのものではない」(アリストテレス詩学』)から。自分を表面に出せば物語は一見分かりやすく人気を得るかもしれないが、それはその場限りのもので普遍性を求める本来の創作ではない。
アリストテレスはさらに、「(ホメロスを除いて)「ほかの叙事詩作家たちは、徹頭徹尾自分を表面に出しつづけて、ほんの少数のことについてほんの少数の機会にしか、本来の描写はおこなわない」と言っている。作者は、自分が出ることを控えることによって一貫して本来の描写をおこなっている。

他の作品でもそうだが作者は、一つのテーマをベースに物語を語ることが多い。過度の感情移入をすることを避け、物語の背景となる、時間や空間、季節や場所の移り変わりを少しずつ提示することにより物語の世界を描き出す。さらに、さまざまな角度から五官に訴える表現により、聴く人はごく自然に物語の世界へ誘われる。人と人との関係の変化や外部環境の変化などから、人の心の中に生じる記憶、悔恨、希望や期待、人への想いや人と人との絆を描き出す。
出来事そのものよりも、その出来事を通じて引き起こされ、お互いの関係の有り様によって様々に変化していく人の内面の動きに関心を向ける。
本作品においても、一見平坦にさりげなく、日常的な生活風景や、出会いと別れ、そして再会など恋愛の様子を描いているが、内面への深い洞察力により、人の心が変わっていく繊細な心理を描き出している。

人の心は決してガラス玉のように硬質なものではない。ガラス玉は相互に接近したり接触したりあるいはぶつかって反発し合ったりしてもそれ自体は何ら変化しないが、人の心は心の中と心の外に起こる状況のなかで常に変わっていく。それに伴い人と人との関係もまたさまざまに変わっていく。ガラス玉は衝突して砕けてしまうと決してもとには戻らないが、人の心は再び蘇ることができる。心の変わっていく様の哀しみや喜びを静謐な言葉を紡ぐことにより静かにそして暖かく見つめ描き出す。

<社会の矛盾について>
現代社会は様々な矛盾を生み出している。個性や独自性、自立した生き方を強調し、目標に向かって前向きにすすむ姿勢などが賞賛される一方、日本古来の伝統や美風といいながら実際は明治政府がでっち上げたにすぎない家族制度、集団主義、男性優位社会などは相変わらず存在し、またグローバル化の名のもとに生産性や効率、金儲けを重視する資本の論理が優先され、弱いところにそれらのしわ寄せが押し寄せる。個性尊重の叫び声の裏で個性は押しつぶされ、灰色の無機質な世界が拡大していく。

本作品は、男女雇用機会均等法(1972年施行)後、次第に女性の社会進出が進んだ1990年代前半を舞台に、仕事と恋愛を両立させようと模索する女性の心と行動を描いている。作者は登場人物の内面に目を向ける中で、社会の矛盾に苦しむ心に共感し、その物語を語ることで、人々が社会の矛盾に気づき、その改善に向けて問題意識を提示している。人の心という普遍的なものと、現代社会の矛盾という個別的なものの両方を描き出す。

<繊細な感覚と表現>
主人公は、4月前の閑散とした電車、まばらな学生服、窓の外の生活の音などから季節の移ろいを感じている。自然の風景ではなく、繊細な感覚で街の中で様々な感覚から季節を感じている。
平安朝の歌人は、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(古今和歌集 藤原敏行)と詠み、繊細な感覚や感情を言葉で表現している。箏(しょう)曲家の宮城道雄は、幼い頃に失明したが、音で季節の移ろいを知った。“電車の音を聞く時、街の騒音にもそこに一脈の愛しさを覚えずにはいられない”と言っている。時代を超えて作者も同じように感じそれを表現している。

言葉の面では、ホームグランドという言葉から街のイメージが、後悔という言葉の発音から航海、すなわち新たな世界へ乗り出すことが連想される。歌詞という語数が制約されている条件の下で、一つの言葉から連想されるものを活用しイメージを広げている。

色彩の面では、街のイメージを強調することで無意識のうちにくすんだ灰色の世界が浮かび上がるが、そこから、青い海、白いTシャツ ブルージーンズ、と、鮮やかな青と白の世界へ一転することにより、仕事と恋の対比の印象を強めている。

<海への想い>
このような街のイメージやハイヒールという言葉からから浮かび上がる仕事と、あなた、青い海という言葉からから浮かび上がる恋が対比される。主人公は恋人を振ってまで飛び込んだ仕事の世界、かつてあこがれていた都会の生活、ハイヒールを履く生活に疲れている。矛盾に満ち、人を消耗させるだけの世界と生活にピリオドを打ち、それらを捨てて昔の恋人のところに帰りたいと願っている。

石川啄木は、
「ゆゑもなく海が見たくて 海に来ぬ こころ傷みてたへがたき日に」
と詠み、現代の歌人俵万智は、
「今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海」
と詠んでいる。

フランスの詩人ボードレールは、
「自由の人よ、君はいつでも海をいとしむだろう!/海こそが君の鏡。君は自分の魂を見るのだ」と歌い、同じくマラルメは、
「肉の身は悲しい、ああ! 本はみな読んでしまった/逃げる! 彼方へ逃げる! ~海へとひたるこの心を引きとめることはできまい」
と歌った。

いずれも、海は傷ついた心を癒し、人はそこで再び自己を発見しようとする。作者自身も本作品に先立つ1992年発売の『あの微笑を忘れないで』で、「都会がくれた ポ-カーface 海に捨ててしまおう」と言い、また他の作品でもたびたび海について語っており、作者にとって海は一貫して癒しと救済の場であった。

海は、かつて二人でよくいったところ。街の生活に疲れた主人公は、想い出や後悔を脱ぎ捨てて再びあのなつかしい時代に、あの生活に戻りたいと思う。しかし、昔の友達は皆変わってしまった。自分が変わったように昔の恋人も変わってしまったかもしれない。別れてからの歳月によって複雑な感情がうまれ、昔のあのなつかしさはもう二度と再び戻って来ないかもしれない。

“ハイヒール脱ぎ捨てて
あの夏の日のlast dance
もう一度 踊りたいの“

という主人公の痛切な思いは遂げられるだろうか。居場所はあるのだろうか。作品は結末を告げずに余韻を残して終わる。


<新時代への道>
“ハイヒール脱ぎ捨てて”という歌詞は、虚飾に満ち、自己を失ってしまうような都会の生活や仕事から自由になりたいという思いとともに、女性の社会進出が進むにつれハイヒールを履くことを求められる機会が増えたという時代に対し、ハイヒールの「苦痛」から女性を解放しようという思いが感じられる。現代では、ハイヒールの強要は女性への差別と考えられ、2015年のカンヌ映画祭では、ハイヒールの強制はできない、と女優たちがレッドカーペット上でハイヒールを脱ぎ平らな靴で来場するなど21世紀になって脱ハイヒールの動きは加速している。作者は人間への究極の信頼と優しさを忘れずに、しかし社会の不当な差別や矛盾に対して深く静かに抗議しているように思える。女性がハイヒールを履かない時代が来たら本作品はいちはやく時代の動きに先鞭をつけた作品として評価されるかもしれない。

以上