『DAN DAN心魅かれてく』
作詞:坂井泉水 作曲:織田哲郎 編曲:池田大介
初収録:7thアルバム「TODAY IS ANOTHER DAY」収録(1996年7月8日発売)
タイアップ:フジTV系アニメ”DRAGON BALL GT”オープニングテーマ
提供:FIELD OF VIEW

<歌詞>
DAN DAN 心魅かれてく
その眩しい笑顔に
果てない暗闇(やみ)から飛び出そう Hold my hand

君と出会ったとき
子供の頃 大切に想っていた景色(ばしょ)を思い出したんだ
僕と踊ってくれないか
光と影の Winding Road 今でも あいつに夢中なの?
少しだけ 振り向きたくなるような時もあるけど
愛と勇気と誇りを持って闘うよ

DAN DAN 心魅かれてく
この宇宙(ほし)の希望のかけら
きっと誰もが 永遠を手に入れたい
ZEN ZEN 気にしないフリしても
ほら君に恋してる
果てない暗闇(やみ)から飛び出そう Hold your hand

怒った顔も疲れてる君も好きだけど
あんなに飛ばして生きて 大丈夫かなと思う
僕は…何気ない行動(しぐさ)に降り回されてる sea sida blue
それでも あいつに夢中なの?
もっと聞きたいことがあったのに
二人の会話が 車の音にはばまれて通りに舞うよ

DAN DAN 心魅かれてく
自分でも不思議なんだけど
何かあると一番(すぐ)に 君に電話したくなる
ZEN ZEN 気のないフリしても
結局 君のことだけ見ていた
海の彼方へ 飛び出そうよ Hold my hand

 

1)感覚から想起される記憶
味覚、嗅覚等の感覚から記憶が喚起されることについては、たとえば、フランスの小説家プルーストは小説「失われて時を求めて」の中で紅茶に浸したマドレーヌの味覚から主人公が子供の頃過ごした場所やその生活を思い出すという場面を印象的に書いている。古今集の詠み人知らずの歌では「五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」と花の香りから昔の恋人を思い出している。

本作品では、作者は“君と出会ったとき”という視覚から喚起される“子供の頃 大切に想っていた景色(ばしょ)”という記憶について語っている。写真や映像技術の進歩により、現代では視覚的なあるいは空間的な記憶の比重が増大していると言われており、本作品も時代の特徴を反映しているといえる。

「未知にして未踏の風景を包んでいないような顔は一つとして存在せず、愛したものの顔とか夢見た顔で満ちていない風景、来るべき、またはもう過ぎ去った顔を繰り広げない風景など存在しない」と、視覚と記憶の関係について、フランスの二人の哲学者ドゥルーズガタリはその共著のなかで言っている。顔と景色の記憶が切り離せないならば、“君と出会ったとき”の第一印象として記憶から想起された、“子供の頃 大切に想っていた景色(ばしょ)”とは何を意味するのだろうか。なぜ景色に“ばしょ”とルビが振られているのか。場所とは何か。


2)場所の記憶
フランスの人類学者マルク・オジェによれば、「場所」とは、社会的には歴史的な意味が、個人にとっては個々の記憶という意味のあるところである。したがって、場所を思い出す、すなわち場所の記憶、とは個人にとって何らかの意味を持つ記憶のある場所を思い出すことである。これに対し、均一化された風景、歴史的な個別性をもたない空間という現代都市の環境は「非-場所」と呼ばれる。高速道路や超高層のオフィスビル、近代的な空港などの人工環境は、そこにどれだけ人が集まろうと、歴史的な個別性をもった「場所」ではない。“子供の頃 大切に想っていた景色”は「場所」であって「非‐場所」ではない。

場所は空間の、記憶は時間の関数である。「場所の経験は必ず時間と深い関係を持ち、記憶によって構成される」ことをドイツの哲学者ハイデガーは強調した。人の記憶は個々の事柄の痕跡が保存されてできているのではなく、現在との関係においてつねに生成している。
「場所の記憶」は現在と過去とのかかわりあいによって生成される。「記憶の場所」は存在しない。


3)果てない暗闇(やみ)とは
「嘗て愛した場所に再び出かけるのは空しいことである。そんな場所には二度と会えないだろう。なぜなら、それは空間に位置していたのではなくて、時の中に位置していたのであり、それを再び訪ねようとする人間は、もはやその場所を愛情で飾った嘗ての少年ではないだろうから。かつて愛した場所、すなわち記憶の場所は存在していない、時の中に位置しているのであり、二度と逢えないのである。子供の頃大切に思っていた場所、それは果てない闇の中に消えている」とフランスの作家、アンドレ・モーロワは、言っている。

主人公の意識は、視覚からはじまった記憶の世界、内的世界へ向かう。しかし、“君と出会ったとき“思い出した”子供の頃 大切に想っていた景色(ばしょ)”は“果てない暗闇(やみ)”の中に消えている。

 

4)過去から未来へ
主人公は、“果てない暗闇(やみ)“に少しだけ 振り向きたくなるような時もあるけど”暗闇を認識するきっかけとなった“君”とともにその暗闇から飛び出そうとする。

フランスの哲学者パスカルは「自分が、無限と虚無とのこの二つの深淵の中間にあるのを眺め、その不可思議を前にして恐れおののくであろう。そもそも自然のなかにおける人間というものは、いったい何なのだろう。無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。」(パンセ)と言っている。

永遠は無限である。無限と虚無の深淵の中で、主人公は“愛と勇気と誇りを持って闘う”と誓う。それは未来へ向かっての闘いである。記憶が過去と現在の相互作用によって生成されるとすれば、それは必然的に未来と現在の相互作用とも深いかかわりあいを持つからである。現在は未来につながっている。

平安朝の歌人、藤原清輔は、「ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき」と詠んだ。彼は、記憶を通じて過去を振り返り、その現在-過去の関係を未来-現在の関係に投影することにより、未来への期待を見出そうとしている。過去に眼差すことは、未来に眼差すことにつながる。

古代ローマの哲学者アウグスティヌスは「三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在。じっさい、この三つは何か魂のうちにある。魂以外のどこにも見出すことができない。過去についての現在とは“記憶”であり、現在についての現在とは“直観”(しっかりと、じかに見つめること。直接に、目前のものをまのあたりに見つめること)であり、未来についての現在とは“期待”である」と言っている。

主人公は自己の魂の内にある「過去の記憶」をみつめ、それが果てない“暗闇(やみ)“に消えていることに気づいた後、未来という「期待」へ向かおうとする。


5)未来へ進む意志
現代フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは「未来との関係は、他人との向かい合いのなかで実現する。未来との関係は他者との関係そのものである。」と言い、また「“顔”は発言と結びついている。“顔”は言葉を語る。語るからこそ、あらゆる対話が可能になる。」とも言っている。
哲学者の三木清は「自己の魂のうちに深い混沌、闇を湛える者にして初めて、何が明晰であり、何故に明晰が求められるか、を真に理解することができる」(哲学ノート)と言っている。

主人公が自己の内的世界にある暗闇(やみ)に気づいたのは、君と出会ったときである。その君の“眩しい笑顔”に主人公は再び現実の世界に引き戻され、“DANDAN心を魅かれ”ていく。主人公は、君に恋している自分に気づく。君によって気づかされた果てない暗闇から君によって飛び出そうする。
“僕と踊ってくれないか 光と影の Winding Road”と、共に暗闇(やみ)から飛び出そうと願い呼び掛ける。求めている“君”との関係は平坦な道ではく、相手の気持ちがつかめないという現実のもどかしさに振り回されるが、“眩しい笑顔”に“DANDAN心を魅かれてく”主人公の気持ちを止めることはできない。

“果てない暗闇(やみ)から飛び出そう”はまだ現在の状況“から”の逃避の段階だが、“海の彼方へ飛び出そう”は、海の彼方“へ”と目標を見出している。それはもはや孤独な闘いではない。“Hold your hand、Hold my hand”と繰り返すことにより“君と二人で”ということを表している。youが複数を表しているとすればさらに輪は広がっていく。“果てない暗闇(やみ)”から始まった旅は、未来へ希望へ、新たな創造への道を切り開く道に続いている。

「希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」(中国の作家魯迅

「意識的存在にとって存在することは変化することであり、変化することは成熟することであり、成熟することは自己を永遠に創造し続けることである」(フランスの哲学者ベルクソン


6) 視覚と聴覚
物語りは、主に君の顔という視覚から主人公に生じた意識について展開されるが、途中から場面は一転し、“二人の会話”、“車の音”という聴覚から生じる意識についての展開に切り替わる。二つの感覚から生じる意識について語ることにより、聴く人にとって物語はより具体的に浮かび上がる。

さらに、“二人の会話”が“はばまれて”いること、“通り”は“seaside blue”で青い海の海岸通りであることなど、その“海の彼方”へ飛び出そうとしていることなど、文法的なつながりはなくとも、それぞれの言葉の間のイメージから、場面が鮮やかに浮かび上がって来る。
このような作者の手法は物語の奥行きを深めるのにたいへん効果的であるといえる。


7)オノマトペ(擬態語)の効果
本作品では、言葉の発音を効果的に使うことによりその印象を一層強めている。感覚からの記憶の想起、内的世界から外的世界への転換、未来へ向けてのダイナミックな動き等に於いて、DANDANという言葉とそれと対句的に用いられるZENZENといった運動を想起させる言葉が大きな効果を発揮している。

ものごとの状態や感情などの音を発しないものを言葉で表現するという特徴をもつ擬態語は、普通の動詞や副詞よりも、からだを動かす運動について、より具体的で生き生きとしたイメージを想起させる。擬態語は他の情報よりも、動きそのものに注意を向けさせ、動きを自分の心の中で模倣したり、その動きの準備をしたりする。

言葉の音が特定のイメージと結びつく現象の一つとして濁音は、発音する際に、口の中が大きく広がることが『大きい』『強い』という印象につながると考えられている。また、同一の単語を重ねて一語となる単語は畳語と呼ばれ、音や動作、状況が継続したり繰り返していることを表現する場合がある。「がんがん」「ぐんぐん」「ずんずん」「どんどん」というような言葉がこれにあてはまり、オノマトペ(擬態語)として使われる。

本作品において「だんだん(段段)」は「順をおって。しだいしだいに」、「ぜんぜん(全然)」は「(下に否定の語を伴って)全く、まるで、わからない」と本来の意味で使われている。いずれも、漢語由来の言葉であり、漢字は表意文字なので、本来はオノマトペではないが、本作品では、楽曲のリズムに合わせてその音の特徴を生かしあたかもオノマトペとしての効果をあげることにより本来の意味を一層強く現している。

作者は、提供するアニメのストーリーと曲の双方のイメージから言葉を選んで物語を創作する過程の中で、だんだん、全然という言葉の持つ意味と音が、お互いに意味を強めあいストーリーに合った相乗効果を発揮することに気づき、取り入れたと思われる。

絵画や彫刻、写真や映像芸術などの芸術的創造にとって、身体感覚と記憶の動的な関係は本質的である。音楽でも同じであろう。本作品では言葉の特性からこの動的な関係を印象づけることに成功している。

さらに歌詞の表記にも注目したい。
「段々、全然」、「だんだん、ぜんぜん」、「ダンダン、ゼンゼン」、「DANDAN、ZENZEN」と並べて見ると、漢字の場合は単に意味だけになり、ひらがなや片仮名は、音のイメージは漢字より強まるものの、力強さに欠ける。これに対し、アルファベットそれも大文字の場合は、意味と音の双方が力強く響くことに気づいたと思われる。文字すなわち視覚の面からも、オノマトペの効果となって現れると思われる。

オノマトペが多く使われることは日本語の特徴であり、他の言語では使用されることは少ない。しかし、アルファベットは世界中で広く認識されているので、日本語の歌詞の中に浮かぶDANDAN、ZENZENという言葉は、その発音と、曲のリズムの双方から強い印象を与え結果的に日本人が感じるオノマトペに近い効果を上げることができると思われる。

アニメ「DRAGON BALL GT」が世界で広く愛されており、それとともに本作品も多くの人に愛されているのはこのような効果も影響しているのではないだろうか。


8)ことば
また、暗闇(やみ)、景色(ばしょ)、宇宙(ほし)、行動(しぐさ)、一番(すぐ)など漢語と日本語(やまとことば)をうまく組み合わせている。漢字は視覚であり、かなは聴覚である。一つの言葉で聴覚からと視覚からと2つの意味やイメージをもたせ、詞の世界を広げている点からも坂井の「言葉を詞を大切にしてきた」ことが分かる。


9)終わりに
このようにみると、本作品は、感覚と記憶、内的世界と外的世界、過去と未来、暗闇と希望、人と絆、言葉とイメージなどへの深い洞察によって成立していることがわかる。その根底にあるのは、作者の創作活動に一貫している愛と勇気と誇りである。

以上