『 二人の夏』  
作詞:坂井泉水 作曲:栗林誠一郎 編曲:明石昌夫
初収録:4thアルバム「揺れる想い」(1993年7月10日発売)
タイアップ:なし
歌詞(アルバム盤)
偶然に見かけたの バス停で
結婚すると噂で聞いたけど
スーツ姿のあなたは
やけに大人に見えた
少し距離感じたせい?
声かけそびれたの

わすれかけた 二人の夏 胸に蘇る
あれからもう どれくらいの月日(とき)が過(た)ったのだろう
振り向くはずのないあなたに
サヨナラ言った
どうかずっと変わらずにいて
大好きだった 笑顔だけは

別離(わかれ)ても しばらくは悲しくて
あなたの電話 ずっと待っていたの
今はもうそれぞれに
違うパートナー見つけ
別の道歩き出した
もう戻らないわ

輝いてた 二人の夏 波がさらう様に
いつかはきっと 遠い記憶の彼方に消えてく
あなたの写真大切にしまっておくわ
いつかどこかでまた逢えること
祈ってるわ 元気でね

  


心の世界
「二人の夏」は、過去の恋人を偶然見かけたことから始まる。
“偶然にバス停でみかけた”“結婚すると噂で聞いた”、“スーツ姿のあなた”が“やけ大人にみえる”という表現により、具体的な状況が徐々に見えて来る。
このように昔の恋人を偶然見かける、という出来事をきっかけに物語を語ろうとする場合、見かけた場所や時間、それまでの経緯や状況、光景等外部の状況を具体的に描写すればするほどリスナーにとっては容易に感情移入できるが、それだけ想像力を働かせる余地はなくなる。
本作品は、冒頭の導入部から場面は一転し、外部に向いていた目は内部に、心の中の世界に向かう。物語の説明ではない。その心の中の世界から自由に想像を働かせることにより、様々な物語が新たに生まれる。


時間の世界
心の中の世界では、過去、現在、未来は交錯する。時間は直進的には進まない。
時間について小林秀雄は「僕等の発明した時間は生き物だ。過去と言い未来と言い、僕等には思い出と希望の異名に過ぎず、この生活感情の言わば対照的な二方向を支えるものは、僕等の時間を発明した僕等の生に他ならず、それを瞬間と呼んでいいかどうかさえ僕等は知らぬ。従ってそれは“永遠の現在”とさえ思われて、この奇妙な場所に、僕等は未来への希望に準じて過去を蘇らす。」(ドストエフスキイの生活)と言っている。
またレヴィナスは、「時間は孤立した単独の主体に関わる事実ではなく、時間はまさに主体と他者の関係そのものである。」(時間と他者)と言っている。
過去は記憶であり、未来は期待である。過去は蘇り、未来は切ない。二人の関係を巡る“永遠の現在”の世界心は往還する。


電話と写真
あなたの電話”は過去における期待すなわち未来であった。しかしもはやその未来はない。大切にしまっておく“あなたの写真”は未来における失われた過去の記憶である。
電話と写真という二つの言葉が対句的にあらわれ、失恋の悲哀が一層切実なものとして伝わってくる。
電話は空間と時間を一瞬で超える会話を可能にする。写真は、ロラン・バルトはその本質のひとつとして「それはかつてあった」(明るい部屋)ということをあげており、、スーザン・ソンタグは「この瞬間をまさしく裁断し、凍らせることで、すべての写真は時の容赦のない溶解作用を証言する」(写真論)と言っている。
電話や写真といった近代文明の産物は日常生活においてあまりにもありふれたものとなっており、われわれはその存在について普段意識しない。しかし、その出現によってわれわれの意識や行動は変わってきており、ときにそれは痛切な想いを伴う。
急速な技術の進歩により、電話や写真が前近代的なものとして意識される時代がいつかやって来るであろう。その時代の方がむしろ、本作品がある時代に生きる人の意識をあざやかに描き出し、それゆえに時代を超えてひとの心に訴えかけてくることを感じ取ることができるのではないかと思われる。


言葉
タイトルにも使われている“二人の夏”、という言葉から、熱く燃えた恋のイメージがわく。
あれからもうどれくらいの月日(とき)が過(た)ったのだろうという言葉から、その恋が終わってからの長い時間のイメージがわく。ときを月日と、その月日の経緯を経つではなく過つ、と表すことにより、長い年月に対する想いが一層深く感じられる。

一方、二人の夏を“波がさらう”、という表現から、夏の海辺の光景が浮かび上がる。夏と波という言葉が響きあいかつての恋のイメージが拡がる。
“いつかはきっと”という言葉から時間的な、“彼方に消えてゆく”という言葉から空間的な距離感覚が感じられる。
「かつてそれはあった」恋が「時の容赦のない溶解作用」によりいつかはきっと消えてゆく。
未来に向かって消えてゆかざるをえない恋のイメージが時間と空間の中で鮮明に浮かび上がってくる。
一見すると何気ないごく普通の言葉を連ねて詞が構成されているように見えるが、表記方法も含めてこれらの言葉は綿密に選び取り、組み合わされている。失われた、そして失われるであろう恋への痛切な想いが静謐な言葉の中で語られてゆく。
「言葉の使い方とは、心の働かせ方に他ならず、言葉の微妙な使い方に迂闊でいる者は、人の心ばえというものについて、そもそも無智でいる者なのだ。」(本居宣長)と小林秀雄が言っているのはまさにこの様なことであろう。


作者の想い
二人の夏、というタイトルは、わたしの夏があるようにあなたの夏もあることを表している。この物語は客観的な、離れた視点で語られる。世阿弥のいう「離見の見」すなわち「自らを観客であるかのように見ている役者の視線」のようである。
一見、個人的な特定の経験を語っているように見えるが、みずからの別れの悲しみ、苦しみを、ただ一人の悲しみ苦しみとして歌っているのではない。独りよがりの告白や感想に寄りかかり、もたれ掛かる弱さもない。個人の経験は、言葉によって普遍的な「経験」へと昇華されている。
再び小林秀雄によれば「悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。」(美を求める心)ということであろう。
アリストテレスは、「作家というものは、作品の中に自分が直接顔を出して語ることを、できるだけひかえなければならない。それは彼を描写家たらしめるゆえんのものではないからである。」(詩学)と言っている。
これは作詞だけにとどまらない。作者と一緒に仕事をしたレコーディング・エンジニアの島田勝弘は「アーティスト目線とリスナー目線。坂井さんは常に両方を持つように心がけていたと思います。そのことについては見事でした。(中略)その努力もあって、歌詞、メロディ、アレンジ、ミックス…… が調和していきました」(永遠 君と僕との間に)と言っている。
「私はいつも本当にことばを、詞を大切にしてきました。音楽でそれが伝わればと願っています。」という作者の言葉がすべてを語っている。

 

終りに
本作品は、別れた恋人との偶然の出逢から物語が始まる。
しかしそこには相手に対する恨みや憎しみはない。自己の正しさを声高に主張したり、相手を打ち倒したり傷つけることはない。泣き寝入りをして自ら身を引くといった昭和の女はいない。変わらずに、元気でいてと相手にエールを送りつつそれぞれの道を歩み始める。
そこにあるのは、相手を思いやる優しさであり、レヴィナスはそれを慈悲とよんでいる。
「慈悲(シャリテ)(慈善、隣人愛、愛徳)と正義とのあいだの本質的な差異は、まさに正義の観点からすれば、正義にはもはやいかなる優先順位も不可能であるのにひきかえ、慈悲のほうは他者を優先する、ということに由来するのではないだろうか。」(時間と他者)
本作品はまさに、相手を思いやり、自己を大切にし、自立した道を歩み始めるすべての人に対するエールとなっている。その根底に流れているのは愛である。
セルバンテスサンチョ・パンサに、「あれはわし共が神様だけに向けろと説教士が言うのを聞いたことのあるような愛だ。永遠の栄光への希望とか、地獄への恐れとか、そういうものに動かされないような、純粋な愛だね。」(ドン・キホーテ)と言わせている。
これこそ作者が最も伝えたかったことであると思われる。

以上