『不思議ね…』
作詞:坂井泉水 作曲:織田哲郎 編曲:明石昌夫
初収録:2ndシングル(1991年6月25日発売)
タイアップ:日本TV系「マジカル頭脳パワー!!「エンディングテーマ」
歌詞(CD&VD09)

夏の風が素肌にキスしてる
流れてゆく街並
すれ違う景色が知らず知らずのうちに
崩れてゆく サヨナラが聴こえた

ああ 季節(とき)はすべてを変えてしまう
少年の瞳を ずっと忘れないでね
不思議ね… 記憶は空っぽにして
壊れたハートをそっと眠らせて in your dream

南風がやさしく囁いている
輝いていた あの頃
さり気ない仕草をいつも横で見ていた
これからは 遠くで気にしてる

ああ季節(とき)はすべてを変えてしまう
言えなかった悲しみは 過ぎた日の幻
不思議ね… 記憶は空っぽにして
壊れたハートをそっと眠らせて in my dream

ああ 季節(とき)はすべてを変えてしまう
せつない想い出に 縛られたくないの
不思議ね… 記憶は空っぽにして
壊れたハートをそっと眠らせて in my dream

 

作者は本作品について「以前好きだった人が元気でいてくれればいいなっていう懐かしいようなホロ苦いような女の子の気持ちを歌った詞なんです。一番言いたかったのは、“時はすべてを変えてしまう”っていうこと。ありきたりの言葉なんだけど、その中の深い意味を感じ取ってもらえれば嬉しいし、すごくさわやかな曲だから聴くだけじゃなくぜひ歌って欲しいな」とコメントしている。

本作品は、“時はすべてを変えてしまう”というコンセプトをベースに、時の流れに伴う喪失感、季節や運動の感覚などが表現されており、そこから作者の言う“深い意味”が浮かび上がってくるようの思われる。


時間
“時はすべてを変えてしまう”というフレーズに込められた思いはどのようなものなのか?

フランスの作家、アンドレ・モーロワが「プルーストを求めて」の中で、プルーストの作品のテーマについて語っている内容が手がかりになるかもしれないと思い、少し長くなるが要約してみる。

「人間はすべて、否応なしに、時のなかに投げこまれ、歳月の流れに運び去られる。人間の全生涯は時に対するたたかいである。いつまでも一つの愛に、一つの友情に結びついていたいと思う。しかしそうした感情が、流れの面に浮かぶためには、何らかの存在にすがりつかなくてはならない。すがりつくべき存在そのものがまた分解し、沈んで行く。それは死ぬこともあるし、反対にこちらが変化してしまう、ということもある」
「嘗て愛した場所に再び出かけるのは空しいことである。そんな場所には二度と会えないだろう。なぜなら、それは空間に位置していたのではなくて、時の中に位置していたのであり、それを再び訪ねようとする人間は、もはやその場所を愛情で飾った嘗ての少年ではないだろうから」

しかし、「人間も事物も、自己も他人も、すべては流れ去る」と感じるプルーストには、「自己のなかには、永続的な、永遠な何物かがある」という深い確信がある。

「この深い確信、プルーストは、それを極めて短い瞬間に何度か経験した。そういう瞬間に、突然過去の一ときが現実となって蘇ったのである。滅びてしまったと思っていた嘗ての光景、嘗ての感情が、そのように再び現れる力をもっているからには、明らかにそれらは自己の裡に保存されていたに違いない、そういうことを彼は発見したのである」
「過去は、或る事物、味、匂いなどのなかに生き続けていて、いつか、偶然、われわれの追憶に、生々しい現在の感覚の支えが与えられるとき、~お茶にプチット・マドレーヌを浸し、そのお菓子のかけらのまじった一口のお茶が、彼の口蓋に触れる瞬間、何か異常なことが、彼のなかに起っているのに気づいて、身ぶるいするとき、~このとき、時は見出され、そして同時に、時は征服される。なぜなら、過去の全き一瞬は、現在の一齣となることができたから」
「時間に対する精神のたたかい、現実生活のなかに<自己>のつかまるべき固定した手がかりを見出すことの不可能なこと、そのような手がかりはこれを自己自身のなかに見出すべきであること、それは芸術作品のなかに見出しうること、それらが「失われた時を求めて」の、根本となるべき、深い、新しいテーマなのである」

作者の言う、「時はすべてを変えてしまう、という言葉の深い意味」も、このようなことかもしれない。

また、フランスの哲学者ドゥルーズは、道元の「正法眼蔵」を引用し、時間とは「諸々の出来事の、各々の速度を通した視覚的な蔵である」と言っている。この場合は視覚という感覚から時間は見出されることを述べており、これも作者の感覚と共通するものがあるようである。


喪失感
“時はすべてを変えてしまう”とは、時は喪失である、という感覚につながる。様々な芸術家がそれらを表現している。

スランスの詩人ギヨーム・アポリネールにとって、時は痛切な喪失感とともに語られる。画家マリー・ローランサンとの恋の終りを詠いシャンソンの曲でも有名な詩「ミラボー橋」(Le pont Mirabeau)の最後のフレーズ

日々は過ぎ去る 週また週は過ぎ去る/過ぎた時も/恋も戻ってはこない
ミラボー橋の下 セーヌが流れ/
夜よ来い 夕べの鐘よ鳴れ/日々は過ぎ去り わたしは残る


アメリカの詩人エミリ・ディキンスンは少年少女時代の喪失について詠っている。
「わたしはなにかを失ったといつも感じていた」の最初のフレーズ

わたしはなにかを失ったといつも感じていた
まず最初に思い出すことができることは
なんだかわからないが奪われたということだった
あまりにも幼かったので誰も気づかなかった

ここでは、幼い時代に何かを失ったという、深い喪失感と疎外感が静かに表現されている。


日本の作家では、樋口一葉の「たけくらべ」で語られている“少年(イノセンス)の喪失”についてドナルド・キーンが次のように述べている。
「『たけくらべ』の主題は、きわめて日本的であると同時に、万国共通の理解に訴える。それは少年(イノセンス)の喪失である。勝気な美登利、ひょうきん者の正太、内気な信如をはじめ登場してくる子供たちは、いずれも少年期の気楽な特権を脱しておとなの世界のきびしい現実に直面しなければならぬ瀬戸際に差しかかっている。まもなく自分の意志ではどうしようもない、社会とめいめいの環境が一方的に命ずるままの生活へと進まなければならない。その無邪気な顔には、やがて浮世のしわが刻まれようとしている。そうして危機に立つ子供たちである」
 「“少年”を失う子供たちの苦痛は痛々しい。一葉は完全に感傷を去って少年(イノセンス)の喪失を見つめている」

時代や環境が異なっても、アリストテレスが「哲学の始まり」とよんだ「少年の心」を失わずに大人になることは難しい、ということを作者は伝えたかったのだろうか。


季節
作者の詞のなかで、季節の感覚はひとつの重要な役割を占めており、本作品でも、夏の風の感触の爽やかなイメージと流れてゆく時間のふたつが交錯したところに本作品は位置している。

フランスの詩人ランボーの「幸福」という詩の冒頭に似たような表現がある。

季節(とき)が流れる/城塞(おしろ)が見える/無疵(むきず)な魂(もの)なぞ何處にあらうか?

原文(冒頭)は、「季節」と「城」の名詞のみで出来た一行で、中也はそれに「流れる」「見える」という動詞を入れて動きを作るとともに「季節」の横にルビ文字「とき」を振って、「季節」は移り行く「時間」そのものであることを表現しようとしている。

岩井俊二監督作成の本作品のプロモーションビデオでは、作者が自転車で疾走する姿があり、動きとともに夏の風の爽やかさを感じさせている。また背景に造成中のみなとみらいの風景、殺風景なコンテナヤード、廃線などを取り入れて、時の移ろいを感じさせ、本作品の特徴をよく捉えた映像となっている。


感覚表現
ここでは、外部の触覚や視覚から、今は記憶の中にある埋もれたかつての思い出がよみがえり、それらが聴覚に癒合され「サヨナラが聴こえ」てくる。

触覚、視覚、聴覚に嗅覚、味覚を加えた五感は、相互に密接に関わって外界を認識し、心の内面で転換され融合される。このような感覚の転換と融合により古い記憶がよみがえり、新たな認識が生じる。
感覚と密接な関係から生まれるという意味では、言葉も同じである。「われわれの用いる言葉はその最も抽象的なものですら、具象的なもの-感官(眼、耳、鼻、舌、皮膚)に依って感知し得る意味を表したもの-から隠喩として発達したものである」(ジョン・ロック)。

様々な外部からの感覚、よみがえる記憶、新たな認識、それを表す言葉、これらは分かちがたく結びついている。

松尾芭蕉は次のような句を詠んでいる。
海暮れて鴨の声ほのかに白し
鴨の声が白い、という発想は、聴覚が視覚に転換するという微妙な連関から生まれている。
菊の香や奈良には古き仏たち
菊の香という嗅覚から仏たちという視覚への転移、そして二つの感覚の融合が、過去から現在へと時の流れに生きてきた都や仏像が浮かび上がる。

フランスの詩人ボードレールは、コレスポンダンスというソネット(十四行詩)の一節で

長いこだまが遠くとけあうように/夜のように光のように広大な/暗く深い合一の中で/
においと色と音とがこたえあう

と言っている。彼は、嗅覚、視覚、聴覚などのさまざまな感覚が深いところでとけあっていることに着目した。この詩は、比喩が次々に出現し、聴覚、視覚、触覚、味覚が融合する様を描き出している。
さらにこのような感覚世界は、その奥にひそむ記憶、悔恨、希望といった精神的なものの「象徴」になっている。

作者の感覚もこれらと共通しているように思われる。

さらに、流れてゆく街並、すれ違う景色等の表現は、この感覚を感じている主体である、私、が動いていることが感じられる。動くことによりこれらの感覚は一層深く認識され、それから生まれる意識もまた一層強くなる。

また流れてゆく街並、すれ違う景色はこの詞のもう一つの大きな特徴である時の流れを象徴している。


終りに
このように、“時はすべてを変えてしまう”という言葉の深い意味について詠っているにもかかわらず、全体の印象として本作品は爽やかな感じを受ける。楽曲や作者の歌声の効果とも言えるかもしれないが、最後に版画家で詩人でもあった川上澄生の「初夏(はつなつ)の風」という詩を紹介したいと思う。ドレス姿の女性に緑の風が吹く版画に彫られた詩である。

かぜとなりたや/はつなつのかぜとなりたや/かのひとのまへにはだかり/かのひとのうしろよりふく/はつなつの はつなつの/かぜとなりたや

 
以上