『I still remember』
作詞:坂井泉水 作曲:栗林誠一郎 編曲:明石昌夫
初収録:5thアルバム「OH MY LOVE」(1994年6月4日発売)
タイアップ:
歌詞((アルバム盤)
波打ち際を ひとりきり
すべる太陽に
ホテルの午後は ひとけもなくて
時間(とき)だけが 流れてる
無言で切った電話に
私だと気付くわ
そう願いをかけて
あなたの連絡 どこかで待ってた

I still remember
どうして愛は この胸ひき裂くの
優しい言葉で別れを告げた
あなたはずるい人

ああ どんなにあなたを呼んでも
風に消えてゆくのね
二人は戻れない道を ただ
歩いて行くだけなの

出合って二年の月日は 長くて短かった
終わってしまえば花火のようね
夜空に夢見て
今頃あなたの横には
私よりやさしい彼女がいると
想像が先走る
確かめたいけど…

I still remember
あなたと過ごした
楽しい想い出ばかりが
浮かんでは心をかき乱すの
愛はいじわる

ああ どんなにあなたを呼んでも
想いは届かない
二人は戻ること 知らずに
ここから歩いて行くのね

I still remember
どうして愛は この胸ひき裂くの
優しい言葉で別れを告げた
あなたはずるい人

I still remember
あなたを呼んでも
風に消えて行くのね
二人は戻れない道を ただ
歩いてゆくだけなの


空虚な時間と空間
本作品は、失恋した一人の女性の心理を描いている。

ホテルの午後の人気の無いロビーに主人公はいる。ホテルは様々な人が集まるために作られた人工的な空間である。朝は大勢の人が慌ただしく出入りし、夜はまた新しい人々がやって来てにぎわいを取り戻す。しかし、今は午後のひと時、ひっそりとしている。空虚な時間と空間。人が集まるところに人がいない。それは恋人から別れを告げられた主人公の心の空虚さを象徴している。

詩人萩原朔太郎は「虚無の歌」という作品の冒頭でつぎのようにうたっている。
「午後の三時。広漠とした広間(ホール)の中で、私はひとり麦酒(ビール)を飲んでた。だれも外に客がなく、物の動く影さへもない。煖爐(ストーブ)は明るく燃え、扉(ドア)の厚い硝子を通して、晩秋の光が侘しく射してた。白いコンクリートの床、所在のない食卓(テーブル)、脚の細い椅子の數數。
ヱビス橋の側(そば)に近く、此所の侘しいビヤホールに来て、私は何を待っているのだらう?・・・」
詩人の感じているこの虚無は主人公の感じている空虚さに通じている。

森鴎外は彫刻家のロダンのモデルとなった日本人女性を描いた「花子」という作品の冒頭でこう述べている。
「オウギュスト・ロダンは為事場へ出て来た。広い間一ぱいに朝日がさしこんでいる。このホテル ビロンというのは、もとある富豪の作った、贅沢な建物であるが、ついこの間まで聖心派の尼寺になっていた。娘子供を集めて、の尼たちが、この間で讃美歌を歌わせていたのであろう。巣のうちの雛が親鳥の来るのを見つけたように、一列に並んだ娘たちが桃色の唇を開いて歌ったことであろう。そのにぎやかな声はいまは聞えない。しかしそれと違ったにぎやかさがこの間を領している。ある別棟の生活がこの間を領している。それは声のない生活である。声はないが、強烈な、錬稠せられた、顫動している、別棟の生活である」
ロダンの「為事場」と対比させることにより、朝の誰もいないホテルの広間の空虚な時間と空間が鮮やかに浮かび上がって来る。

花火の記憶
主人公は午後のホテルの空虚な時間と空間の中で、思い出に浸るしかない。その想いは現在から過去へと遡る。夜空に一瞬だけ輝く花火のような恋の思い出。

芥川龍之介は、人生に対する花火の比喩を、繰り返し使っている。とくに晩年の作に多く、人間の全人生はただ一刻の完全な瞬間の中に込められるとも書いているそうである。
短編「舞踏会」でも、人生を花火に喩え、記憶の中の鮮やかな瞬間を描いている。それは鹿鳴館での舞踏会。令嬢明子はフランスの海軍将校と出会う。二人は華やかな会場を離れバルコニーに出る。
「明子と海軍将校とは云い合わせたように話をやめて、庭園の針葉樹を圧している夜空の方へ眼をやった。其処には丁度赤と青の花火が、蜘蛛手に闇を弾きながら将に消えようとする所であった。明子には何故かその花火が、殆ど悲しい気を起こさせる程それ程美しく思われた。“私は花火の事を考えていたのです、我々の生(ヴィ)のような花火の事を” 暫くして仏蘭西の海軍将校は、優しく明子の顔を見下ろしながら教えるような調子でこう云った。」
夜空の花火の人生がすべて込められた完全な瞬間を描いている。

花火の一瞬に人は様々な思いにとらわれる。若くして亡くなった女優夏目雅子の俳句。
“間断の 音なき空に 星花火”
彼女は病を得て病院に入院していたとき、治療のため病室は完全に閉され無菌状態におかれていた。そんな夏の一夜、病室の窓から見る神宮の森の上に煌めく花火。密閉されているため音は聞こえず花火の光だけが星空に見える。この句を読んであらためて花火とは光つまり視覚だけのものではなく、音つまり聴覚や、火薬や夏の夜の匂いといった嗅覚にも訴えるものであることに気づく。その音や匂いのない花火、それは日常の生活の営みから遮断されたしまった悲しみでもあり、一方それゆえに今まで気がつかなかった光だけの花火の美しさにはじめて気づき感動する、そんな一瞬をとらえているように思われる。この句からは何か透明な哀しみのようなものが感じられる。

このように様々な人が、空虚な時間や空間、花火に込められた思いを描いてきた。本作品もそれらと共通するものが感じられる。

未知の道
“二人は戻れない道をただ歩いて行くだけなの”
というフレーズが2度出てくるが、1度目では“道”は高低のない平板な普通のアクセント“mi-chi”であり、、2度目では最初の“み”に高音のアクセントが置かれている。アクセントを大文字で表わせば“MI-chi”となる。

井上陽水の「少年時代」では、
“八月は夢花火”というフレーズが、1回目では“夢”は高低の無い平板なアクセント“yu-me“、2回目では“ゆ”に、つまり最初の音に高音のアクセントが置かれて“YU-me”となっている。
楽曲上の技法として、歌詞で同じ言葉が何度か繰り返されるとき、最後のリフレーンで高低のアクセントを変えることによりこれが曲の最後の部分、クライマックスであるというサインにもなっているようである。

しかし、本作品の場合それだけではない。“MI-chi”というアクセントの言葉があるからでそれは「未知」である。つまり「道」と「未知」が掛詞(かけことば)になっている。

単純に発音だけみればどちらも“mi-chi”なのでそれで十分掛詞になる。しかし日本語では、発音と漢字の結びつき及び漢字と意味の結びつきが強いという特徴がある。1回目は、意味的にも漢字でも「道」なので、耳で聞いてもmi-chi =道となる。しかし、2回目に、「未知」という意味もたせようとしても十分に認識されないおそれがあり、楽曲上の技法をうまく使ってアクセントの違い表わすことが考えられる。1回目はmi-chi =道ですが、2回目はMI-chiとすれば「未知」という意味が生れ2つの言葉がスムーズに掛詞として生きてくる。

つまりここでは発音は同じでもアクセントが異なる二つの言葉を楽曲上の技法をうまく使って結びつけられている。
この結果、“戻れない道を行く”とは“戻れない未知の世界へ行く”という意味も持ってくる。二人にはそれぞれ戻れない道を行くしかない。それは同時に未知の世界へ歩み入ることでもある。


感情移入をしない
本作品は失恋した女性という悲恋のストーリーであり、詞の上からその悲しみは伝わってくる。しかし自分を選ばなかった相手に対する憎しみや恨みなどは感じられない。

主人公は、悲しみの原因を自らの外なるものに求めようとするのではなく、悲しみを直視し、かつて外部にではなく自らの内部に目を向けようとしている。そこに至るまでの苦しみや悲しみを経験しなければならなかったにせよ現実の世界をあるがままに受容しようと決心している。現実を受け止め、その上で、その悲しみを乗り越えるために前向きに生きていこうと決心している。

作者は悲しみを、よく見定めている。出来事より、その出来事が主人公の心に及ぼす作用のほうに大きな関心をもっている。悲しいといってただ泣いているわけではない。独りよがりの告白や感想に寄りかかり、もたれ掛かり、自己満足に陥っているわけでもない。

映画監督の小津安二郎は、「喜怒哀楽だけを、一生懸命写し取ってみても、それで人間のほんとうの心、気持が現せたとは言えない。悲しいときに笑う人もいる」。だから彼の至高の目的は、「人間を描く。それも喜怒哀楽の表にでないやつを」だった。

悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、心の眼で見た悲しみを静謐な言葉によって描いている。それによって表現されている世界は、自立した客観物と化している。

憎しみや恨みなどというネガティブな感情からは何ものも生れないことを作者は知っている。あるいは作者の天性の優しさがそのような感情を持つことを拒んでいるのかもしれない。

詞の中には、“無言で切った電話”、“あなたはずるい人”など、怨念を感じさせる怖い感じの表現もある。しかし作者はこれを演歌調の曲でこぶしなどきかせて歌うことはしない。寺尾広ZARDの特徴と1つして「過剰に感情移入をしすぎないで歌う」ということをあげており、曲の面、歌い方の面からも、感情移入しないという行き方は徹底している。

作者のメッセージ
主人公は前に進む決断をする。それが困難な道であっても。

「愛においては、人はすべてを失いはしないかと懸念してあえて冒険しようとしない。とはいえ、前進しなければならない。だが、どこまで前進するかを、だれが言えよう。その地点を見いだすまで、人はつねにおののく。」「愛の情念について」(パスカル

悲しみのなかでも前向きに希望を持って未知の世界へ踏み出す主人公の繊細な心理の移り変わりを描いた本作品のメッセージとそれを歌う作者の想いは、普遍的な意味を持ち私たちの心に響く。

以上