『フォトグラフ』
作詞;坂井泉水 作曲:徳永暁人 編曲:徳永暁人
初収録:9thアルバム(8thオリジナルアルバム)『永遠』(1999年2月17日発売)
タイアップ:アルバム曲だが日本TV系ドラマ『春のサスペンススペシャル 刑事たちの夏』エンディングテーマ曲に採用された

歌詞(アルバム盤)
1)そこには まだ虹があるの?
花たちが育ってゆくの? We laughed them all
気づかない程 若くないし
理解できない程 純真でもない天使たち
      本当は怖くて 本当は弱虫
      帰る家を探してる
そばに居るだけで それだけでよかった
フォトグラフ 明日が見えなくても ほら 君が揺れてる

2)窓辺に並べかけた植物(はな)の傍に
ひとり腰かけた there’s no time at all
思い入れが強すぎると 次に起こることが嘘のよう
もう何年ぐらい過(た)ったのだろう
     すべてが現実 すべてがまぼろし
     帰る道を探してる
言葉はいらなかった 「愛してる」のサインだけで
フォトグラフ 砂に足跡つけて ほら 君が笑ってる

そばに居るだけで それだけでよかった
瞳を輝かせ 夢中になるクセ 今も 変わらずにいて

ほら 君が愛しい

 

(筆者注)仮に1)、2)と分けて見ました

 

1)作者の想い
本作品について作者は次のように言っている。
「歌詞はサウンドを聴いた時にすぐに映像として頭に浮かんできました。この世の無情と過ぎ去った愛、そして相手の幸せを願う、そんな詩フォトグラフ、フォトグラフ・・・?”そう考えているうちに、まるでドミノ倒しのように世界が広がりました。」MFMvol51(1999年2月号)
サウンドから浮かび上がってくる映像とフォトグラフという言葉からドミノ倒しのように広がる世界。これは何を言おうとしているのだろうか。

 

2)フォトグラフ=写真とは何か
「フォトグラフ」という言葉は、もともと、「光」を意味する「フォト」と、「文字」や「図」を意味する「グラフィ」とを組み合わせたものである。このフォトグラフ=写真について考えて見たい。
写真は、子供の頃の写真、家族の写真、卒業写真、旅行の写真など個人的なものから、歴史的なあるいは芸術的なものまで、幅広く存在する。写真から広がる世界、と言えば、これらの写真をみることによって浮かぶ様々なイメージが考えられる。しかし本作品はそのような個別の具体的な写真から広がる世界ではなく、写真そのもののもつ本質から浮かぶイメージを出発点としているように思われる。

現実に存在しているものは人間であれ風景であれ、全て過去の経緯を内包している。写真は被写体のある一瞬の姿を切り取る。その一瞬に被写体の時間は止まり、変わらずに変化しつつある周囲の存在から切り離される。時間が進めば進む程写真にとられた被写体と現実の存在との乖離は大きくなる。
確かに存在していたものが、写真により切り取られた瞬間に過去の世界へ、存在しない世界へ移行する。時間と空間がこの2つの世界を隔てている。写真という過去とそれを見るという現在とは必然的に一体となっている。現在と過去、存在と非存在、あるいは生と死、彼岸と此岸が一体となっている。
近代になって発明された写真という技術は、それまでの人間の空間と時間の理解を超えたものを生み出した。

写真の本質について、スーザン・ソンタグは「写真論」の中でこう述べている。
“ある美しい対象(被写体)は、老化したり、衰退したりしたため、あるいはもはや存在しないために、悲哀の印象をあたえるものとなる。あらゆる写真は「死を忘れるな(メメント・モリ)」である。写真を撮るということは、他の人間(あるいは物)の死すべき運命、こわれやすさ、変わりやすさを共有することである。この瞬間をまさしく裁断し、凍らせることで、すべての写真は時の容赦のない溶解作用を証言する。”

写真について考察を進めたバルトは「明るい部屋」などで次のようなことを述べている。
“全ての写真の本質は、“それは=かつて=あった”である。“
“写真の不動性は、いわば「現実」と「生」のふたつの概念で倒錯した混同の結果なのである。対象が現実のものであったことを保証することで、写真は密かにそれが生きているのであると思いこませるのであるが、その原因はわれわれの錯覚にある。この錯覚のために、わたしたちは、「実在性」にどこか永遠的ともいえる全体に優越する価値を与えてしまうのである。しかし、この実在性から過去(「これ‐は‐あった」)に移行することで、写真はそれがすでに死んでしまっていることも示唆するのである。”
“どんな写真にも含まれる少しく恐るべきものは、死者の回帰ということである。”
“<写真>はひとつの魔術であって、技術ではない”と言っている。

アメリカの写真家 ソール・ライターは、次のように言っている。
“自分が今なにを見ているか確かでない時が好きだ。何故、私たちがそれを見つめているかが分からず、
ふいに見えはじめた何かを発見する。この混乱が好きなのだ“
ふいに見えはじめた何か、を残そうという意識で写真家はシャッターを押す。その意識と写真から何かを見ようとする意識の2つが交錯するとき、写真は魔術的な力を発揮する。


3)二つの世界
写真が2つの世界が一体となっているように、本作品も2つの世界が一体となっているかのような構成になっている。
歌詞を仮に、
1番は、そこには まだ虹があるの?から始まる世界、
2番は、窓辺に並べかけた植物(はな)の傍に、から始まる世界
に分けて考えてみる。

1番では、話者は“そこには・・・?”という形で問いかけているが、話者はどこに居るのか?誰に問うているのか?は明らかでない。“そこ”は虹や花の咲いている世界、話者はそこに帰る道を探している。「そこには…」という表現は作者が“そこ”ではない世界にいることを示唆している。それは時間と空間を隔てた世界なのか、それともこの世ではないところかもしれない。“気づかない”そして“理解できない天使たち”という言葉は他界に来たことを認識していないことを暗示しているようでもある。
生の世界ではない死の世界。あたかも、現在と過去、存在と非存在、生と死、あるいは彼岸と此岸を内在している写真の世界のようでもある。話者は一方の世界からもう一つの世界を見たいと願って、問いかけている。

2番では、“窓辺に並べかけた植物(はな)”の傍に話者はいる。その世界は植物(はな)がある世界であり、1番で言う“そこ”の世界である。すなわち1番と2番では明らかに世界は異なり、話者も異なる。植物(はな)という表現は、1番の“花”を表すとともに、「植物」と表記することで、人が種子から慈しんで育て花を咲かせる過程への思いを含んでおり、単に話者の外に咲いているのを眺めているのではない。
“そこ”の世界で誰かが育てた花。1番の話者がかつて“そこ”にいた時に育てたのか、あるいは2番の話者が育てたのか?あるいは二人でともに育てたものなのだろうか。植物を育てて花を咲かせるということは、植物(はな)に対す愛であるとともに、愛する人の為でもある。

万葉の歌人大伴旅人は、「我妹子(わぎもこ)が植ゑし梅の木見るごとに心むせつつ涙し流る」と、今は亡き妻が植えた家の庭の梅の木を見るたびに妻が偲ばれる、と歌っている。

現代の二人は、万葉の歌人は、語り合うこと、想いを伝えることができるのだろうか。


4)現実とまぼろし
作者は隔てられた二つの世界を、 “すべてが現実 すべてがまぼろし”と言っている。

“夢かと思いなさんとすればうつつなり、うつつかと思えへばまた夢のごとし”
これは平家物語俊寛の話で、たった一人絶海の孤島に島流しにあって取り残され、都へ帰る望みを絶たれ俊寛の歎きである。絶海の孤島と都の距離はまさに、あの世とこの世と言ってもいいかも知れない。
俊寛は浜を出て行く船に取りすがって連れて行けと泣き叫ぶ。それは消えていく夢を取り返そうとする絶望的な努力。平家物語の作者はその巻を「足摺り」と呼ぶ。
“砂に足跡つけて”
とは二つに引き裂かれた世界を繋ごうとして繋ぐことができないイメージを表しているかのようである。

二つの世界は人の心にもある。

“Is this the real life-
Is this the fantasy- “
(これは現実の人生なのだろうかー
幻想にすぎないのか―)

これはイギリスのロックバンドQueenのFreddie Mercury作詞で1976年に発売され世界的な大ヒットととなったBohemian Rhapspdyの冒頭の一節である。ペルシャ系インド人の両親の子としてイギリス領の大西洋の小島ザンジバル島に生まれたフレディは、イギリスへ移住した後大成功をおさめたが、一方少数民族の移民の子としてまた当時としては社会的に認知されないゲイであること等の差別に苦しんだ。それは社会的な差別であるとともに、彼の内面の二面性の悲劇でもあった。引き裂かれた自己を見つめざるをえない心の叫びの様である。


5)二つの世界を繋ぐもの
かつては時鳥(ほととぎす)が冥界に通う鳥であると信じられていた。「源氏物語」では光源氏が最愛の女性であった亡き紫の上を偲んでいる時に、息子の夕霧が、
「時鳥きみにつてなむ故郷(ふるさと)の花たちばなはいまぞ盛りと」(時鳥よ、亡き紫の上に言伝てをしてほしい、紫の上の故郷となったこの世では花橘が今まっ盛りだということを)と詠んでいる。
二つの異なる世界の交流は、夢幻能の世界にも表れる。シテ(主役)とワキ(脇役)は異なる時代に属している。時間の隔たりがあるにも関わらずワキはシテに「あなたはどうしてここに来たのか、なぜ昔の話をするのか」問いかけ、二人は語り合う。

時鳥が言伝を伝えることができるならば、シテとワキが時代を超えて語り合うことができるならば、二つの世界は、根底では一つにつながっている。

作者は、二つの世界にいる二人を離れて見ている。二人の想い、二人の行動を感情に溺れることなく、いわばモノトーンで淡々と語られている。それだけに、
“ほら 君が愛しい”
という最後の言葉は、「この世の無情と過ぎ去った愛、そして相手の幸せを願う」作者の想い、二つの引き裂かれた世界にいる二人の想いが通じることに望みと光明を見つけようとする作者の痛切な想いが一層強く感じられる。

1番と2番にある英語のフレーズはWe laughed them all と、there’s no time at all とあり、最後がいずれもallと同じ言葉が使われている。作者は、定型詩で使われる脚韻を踏むという音声上の技法で、二つの世界がつながっていることを表している。歌を聴くとき、人は無意識のうちに二つの世界は一つにつながっていることを感じ取る。


以上