『Oh my love』
作詞:坂井泉水 作曲:織田哲郎 編曲:明石昌夫
初収録:5thアルバム「OH MY LOVE」(1994年6月4日発売)
タイアップ:
歌詞((アルバム盤)
ゆるい坂道 自転車押しながら
家まで送ってくれた
あなたは 私の名前呼び捨てにして
夕暮れに 微笑んでいたけど

ほら 加速度つけて
あなたを好きになる
Oh my love
もう友達のエリアはみ出した
一緒にいる時の
自分が一番好き
週末まで待ち切れない
そんな胸さわぎ 揺れる午後

うつ向く横顔 何か悩んでるの?
その理由(わけ)を教えて
初めてのキスの日 街は
スローモーションに
交差するクラクションで夢が覚めた

ほら 走り出したわ
あなたへのプロローグ
Oh my love
無意識に髪をのばし始めたの
あなたといる時の
素直な自分が好き
私の存在どれくらい?
広い背中に問いかける夏

ほら 加速度つけて
あなたを好きになる
Oh my love
もう友達のエリアはみ出した
一緒にいる時の
自分が一番好き
週末まで待ち切れない
そんな胸さわぎ 揺れる午後

あなたといる時の
素直な自分が好き
私の存在どれくらい?
広い背中に問いかける夏


本作品は、物語の展開されている空間と時間について、様々な言葉で表現されている。これらの言葉は一見あまり脈絡のないように思われるが、聴き手は半ば無意識のうちにこれらの言葉をつなぎ合わせ、映像として物語の舞台の情景を作り上げる。作者は、その中で変わっていく登場人物の心理を心象風景として描き出す。聴き手はそこで進む二人の恋の物語を、一歩離れた立場から見ることになる。世阿弥の言う「離見の見」のように物語が様々な視点から見えるようになる。

 

“ゆるい坂道 自転車を押しながら”
この坂道は“自転車を押して”とあるから上り坂である。主人公の女性は恋愛が始まったばかりで、その先はまだ見えていない。ゆるい上り坂は、その向こうの新しい世界へ行く期待を表している。
自転車をわざわざ押していくのは、歩いて帰る主人公にあわせるためであり、何気ない表現で優しさを表しているとともに、後にある加速度をつけるという表現の伏線にもなっている。、

詩人の萩原朔太郎は坂道についてこう言っている(新仮名遣いに修正)。
 「坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたえるものだ。坂をみていると、その風景の向こうに、別の遥かな地平があるように思われる。特に遠方から、透視的に見る場合がそうである。
 坂が  ―― 風景としての坂が ―― 何故にそうした特殊な情緒をもつのだろうか。理由(わけ)は何でもない。それが風景における地平線を、二段に別々に切ってるからだ。坂は、坂の上における別の世界を、それの下における世界から、二つの別な地平線で仕切っている。だから我々は、坂を登ることによって、それの見界(けんかい)にひらけるであろう所の、別の地平線に属する世界を想像し、未知のものへの浪漫的なあこがれを呼び起こす。」

坂道という表現には、この“坂を登ることによって”開かれる二人にとっての“別の地平線に属する世界”への期待が込められている。

 

“加速度をつけて” “友達のエリアはみだした”
坂を登りきるとその先に広がる世界が一挙に見える。その世界への道は下り坂であり、スピードは上がる。古語では、坂(さか)は“境(さかい)”に通じるとの説がある、坂を超え境をこえて二人の恋が“友達のエリア”を超えるところまで、朔太郎のいう“別の地平線に属する世界”へ一挙に進んでいく。「加速度」という歌詞にはあまり使われない物理学の用語が唐突に出て来るが、まさにこの状態を表わすのにふさわしい言葉であり、聴き手の中でイメージが膨らむ。

 

“夕暮れ”、“週末”、“午後”、“夏”
物語の途中にあらわれるこれらの言葉は、1日の終わりの“夕暮れ”、週の終わりの“週末”、1日の後半の“午後”と、いずれも後半部分にあたる。それは、空間で言えば「坂」を超えて加速度がついた状態であり、聴き手の中で新しい世界への期待が生じる。

“ほら 走り出したわ あなたへのプロローグ“
空間、時間的な情景の変化で表わされている、新しい世界への始まりはすなわちプロローグであり、その先にあるのは“夏”である。

 

“初めてのキス”“交差するクラクション”
さらに触覚や聴覚の表現などにより物語の情景や心理のイメージが膨らみ具体化される。
“交差するクラクション”には、坂道を加速度をつけて下ったその先には、賑やかな街並みがあり、二人はそこへ進んでいくというイメージも含んでいる。

 

“一緒にいるときの自分が一番好き”“あなたといる時の素直な自分が好き”
哲学者の三木清は「愛とは創造であり、創造とは対象において自己を見出すことである。愛する者は自己において自己を否定し対象において自己を生かすのである。」と言っている。
作家の平野啓一郎は、「愛とは、他者のおかげで自分を愛せるようになること。愛とは相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。」と言っている。
思想家のエーリッヒ・フロムは、「愛についての誤解は、愛することの問題は、その対象いかんの問題であり、能力の問題ではないという主張である。この人たちは、<愛する>ことは簡単なことで、ただ愛する-あるいは愛される-正しい対象を見つけ出すことがむずかしいのだと考えているのである。」と言っている。
このような誤解は、愛するまたは愛される対象は不変であり、単に見いだせるかどうか、すなわち両者の距離の問題である、と考えることにある。この場合、対象は、古典哲学者が仮定した、「われわれの人格は、不変の核でできていて、いわば一種の精神的彫像である」ものとなっている。
再び平野の言によれば、“愛とは、「他者を経由した自己肯定の状態”である。相手を経由することによって変わっていくこと、それは相手も同じである」

様々な情景の中での心の変化について語って来た作者が最後に伝えたかったことは、このような事ではないかと思われる。

以上