『君とのふれあい』
作詞:坂井泉水 作曲:大野愛果 編曲:葉山たけし
初収録:12thオリジナルアルバム『君とのDistance』(2005年9月7日発売)
タイアップ:
歌詞(アルバム盤)
永遠に感情を 胸にしまい込んでおくことはできない
海岸通りを歩いていくと 君の部屋が映(み)える

若かったあの頃は 夢は思い通りで
何でもできると思っていた

遠い旅をしているみたいに
別々の道を このまま...
二人もう 会えないのかな
もうサヨナラだね
君とのふれあい


ささやかな約束...  もしそこで待っていてくれなかったら
桜散りゆくように それを答えだと思う

支え合ったり ときには反発し合ったりで
未来(さき)の話(こと)を口に出すのが怖かった

涙流れるように
無器用で我がままだった
流れ星がみえるのかな...
大人びていたね
君とのふれあい

遠い旅をしているみたい
君のことをずっと思う
迷宮の彼方に
優しかった 君とのふれあい

夢を見ているみたいに
別々の道を このまま...
二人もう 会えないのかな...
もうサヨナラだね
君とのふれあい


作者のコメント
本作品について作者は、“とても温かな雰囲気の曲なので、人と人とのふれ合いを絵画的に詞として表現してみました”とコメントしている。
本作品は、一見、過去の成就することのなかった恋愛を回想しているようであるが、その中に、
“永遠に感情を 胸にしまい込んでおくことはできない”という現在形、
“もしそこで待っていてくれなかったら それを答えだと思う”
という未来の仮定法などが唐突にあらわれるという手法がとられている。
これは、過去を過去として見るのではなく、過去はその時点では現在であり、その現在の想いを述べていることによる。

絵画的な表現とは
このように複雑な時間構成を持つ本作品を、絵画的に詞として表現する、とはどういうことを意味しているのだろうか。
音楽は時間の芸術と言われるが、絵画には時間は存在しない。しかし、絵画に時間を感じさせる手法の一つとして、日本の絵巻物に特徴的な画法である「異時同図法」がある。
これは、一つの絵画の中に、同一人物が幾つか重複して姿を現わし、かつ行動する場面を描いたもので、同一人物の個々の動きの間には時間の経過が含まれている。その人物にとっては、それぞれの場面が現在であり、その現在における喜びや悲しみ、驚きや怒りなどを感じているが、時間の経過を感じているわけではない。時間の経過は、1枚の絵画に表現され、それを見ることによって初めて感じられる。
過去から現在に至るまでに起こった事柄はひとつの流れとしてつながっているように感じるがそれは、現在から過去を振り返ったときに結果として感じるのであって、それぞれの現在においては未来のことは予測できない。
作者がいう、絵画的とは、「異時同図法」のように時間の経過とともに変わっていくそれぞれの場面における人物の感情や予測できない未来についての想いのようなものを、一つの詞の中に描いている、ということではないだろうか。すなわち、この詞の主人公は、自分が登場する様々な場面とそのとき感じる想いを、見ていることになる。すなわち自分自身の姿を第三者的に、客観的に見ており、それについての想いがこの詞となっている。

日記の場合
これは、日記でも同じことが言える。日記は、その時その時の想いを書くもので、時間の経過は存在しない。本作品より前の2004年11月に発売された『淡い雪がとけて』には、
“古い日記を読み返してみると 他人(ほか)の人の話のようで”
という表現がある。日記に書くとは、その時その時の想いを自らの外に出して固定することである。記憶は自らの中にある限り、次第に変化するか忘れ去られていく。固定された記憶はもはや現在の自分ではなくなる。過去から現在に至るそれぞれの時点でのそれぞれの想いと現在との相違は、日記を読み返すことによりはじめて気付くことができ、そこに時間の経過を感じることになる。

異時同図法により描かれた絵画に登場する人物を、その人物自身が見ることは日記を読み返すことと同じであろう。この様な手法により、本作品を聴く人は過度の感情移入に陥ることなく、それぞれの時間の経過に想いを馳せることができる。

作者のメッセージ
このような手法により書かれた本作品で作者は何を伝えようとしたのだろうか。その鍵は冒頭の一行にある。
“永遠に感情を胸にしまい込んでおくことはできない”
これは何を言おうとしているのだろうか。このような表現に似たものとして、平安末期から鎌倉時代にかけての歌人である、式子内親王の歌
「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする」(新古今集
が思い浮かぶ。玉の緒は命を表しており、一首の意味は、「私の命よ、絶えるなら絶えてしまっておくれ。このまま生きながらえれば、心に秘めた恋心をこらえしのぶ心が弱ってしまいそうな気がしてならない」 と心中の思いが一挙に吐き出されたような歌である。

当時の社会事情によるものか、あるいは内親王という高貴な身分によるものか、いずれにしろ忍ぶ恋に耐えなければならない作者の想いが、冒頭の「玉の緒よ絶えなば絶えね」く強く言い切る表現により、時代を超えて伝わって来る歌である。

一方、本作品では冒頭に“永遠に感情を胸にしまい込んでおくことはできない”と、もはや忍ぶ恋の時代ではない、と宣言し、それに従って詞の世界を創り上げている。それは人の意思が何の制約も受けない自由な世界である。自由意志によって行動することが幸福につながるかどうかは別の問題であるとしても。本作品では恋は成就しないが、“永遠に感情を胸にしまい込んでおくことはできない”という作者のメッセージは失われることはなく普遍的な意味をもって聴く人の心に訴えかけてくるように思われる。

以上