『いつかは…』
作詞:坂井泉水 作曲:坂井泉水 編曲:明石昌夫
初収録:2ndアルバム「もう探さない」(1991年12月25日発売)
タイアップ:なし
歌詞(CD&DVD07)
Baby, Baby don’t you cry
静かな夕暮れに
残された日々 夢を見させて
どんなに時間(とき)を 縛ってもほどける
あとどれくらい 生きられるのか

いつかは情熱も 記憶の底へ
愛し合う二人も セピアに変わる

Baby, Baby don’t you cry
願いがかなうなら
あなたと共に 輝きたいの

いつかは新しい恋に おぼれる
過ぎゆく季節さえ 気付かないまま

いつかは情熱も 記憶の底へ
愛し合う二人も セピアに変わる

Baby, Baby don’t you cry
忘れないで ずっと
あなたの中に 生き続けるわ
Baby, Baby don’t you cry

 


創作のヒント
本作品は、1991年の11月、2ndアルバム「もう探さない」の収録曲で、自らの死を歌っている大変特異な作品である。この年の2月に1stシングル「Good-bye My Loneliness」でデビュー。これはオリコン最高位9位 とデビュー作としては成功といえる。
デビュー作が成功したこともあり、普通なら、作者も事務所もどうしたらもっとヒットさせられるか、世に中に受け入れられるか、と思いデビュー作の延長のような作品になることが多いであろう。しかし、本作品はそのような方向とは全く異なり、およそ一般受けするとは思えない。
本人のコメントが残っていないため、どういうきっかけでこの作品がうまれたのか今では窺い知ることはできないが、作者は24歳の若さでこのような作品を生み出している。
創作のヒントを探ってみたい。

ピカソの場合
若い時に死について深い洞察を思わせる作品を生み出した芸術家としてスペイン生まれの画家パブロ・ピカソ(1881~1973)がいる。
スペイン南部マラガで生まれたピカソにとっては、14歳から23歳まで住んだバルセロナが故郷だった。少し長くなるがいが美術評論家瀬木慎一氏による解説を引用させていただく。
ピカソの経歴で最初の最も輝かしい成功は、1897年16歳のときに描いた、大作「科学と恩寵」がマドリッドの官展で佳作となり、その後、マラガの展覧会で金賞を獲得したことである。今もバルセロナピカソ美術館にそのコレクションの中心として飾られている。
この「科学と恩寵」は、テーマも情調もともに悲痛である。今死につつある若い母を前にして、熟練した医師が脈を険しい表情で確かめ、その向こうでは、何も分からない幼児を抱きかかえた尼僧が見守っているという構図は、その写実技法が卓抜であることに驚かされるばかりでなく、作者がこの若年において死という人生における最も深刻な問題に、まったくひるむことなく立ち向かっている事実に、心を動かされる。
この構図には先例はなく、何に触発されてこの一点の深刻な絵画を描いたのかは、必ずしも明白ではない。しかし、単なる想像の所産とは考えられず、それに、この時期の作品に死に関わるものが少なくないことから、思春期にあって、これから長い人生を生きようとしているこの青年の身辺に、早くも、このこと、すなわち聖書の言葉で言えば、「メメント・モリ(死を忘れるな)」という戒めを自覚させる事例が、次々に起っていたにちがいない。」
若い時に、いわば芸術家としての一歩を踏み出した時に、このように死を見つめていた点が驚くほど似ている。しかもそのきっかけははっきりしていない。おそらく何かが外部で起き、それに影響されたというのではなく、自らの内面を凝視する姿勢がこのような作品を生み出したのではないだろうか。
初期のZARDのPVを撮影した岩井俊二監督は、「「初期のPVを撮っていた頃、坂井さんは“箱根の森美術館に行って、ピカソを見て来た。アーティストを目指すなら見ておいた方がいいかなと思って”と言っていた」と2019年4月にNHKBSプレミアムで放送されたZARD特集で述べている。作者はピカソの興味があると、しばしば述べており、あるいはこのとき、ピカソと出会い、影響を受けたのかもしれない。,
このように死を凝視する一方、ピカソは若いときから、死をひどく恐れていたことを周囲の人々は証言している。ブラックのような親友の死にも立ち会わなかった理由は、それだったという。

陶淵明の場合
もう一人、若い時に死をテーマにした作品をのこした芸術家として中国の陶淵明(365~427)をあげてみたい。
陶淵明南朝東晋から宋にかけての時期に生き、ほかの詩人と異なる、独自の文学を紡いだ特異な詩人であり、彼は、自らの日常生活の体験に根ざした具体的な内実を平明な飾り気のない表現で描いている田園詩人といわれている。陶淵明は、自分の死を想像したとして「挽歌に擬する詩」をのこしている。
当時の中国では「挽歌」というと葬送の野辺送りの際にうたわれた詩であるが、「挽歌詩」の特徴は対象となる「死者」が「他人」ではなく「自分」だ。という点である。淵明は自分自身の死をうたう。これは従来誰も試みなかったことであり、ほかに同様な作品はない。ここに彼の独創性がある。

挽歌詩(冒頭部分)
有生必有死  いのちあるものには、必ず死がある。
早終非命促  たとえ若くて死んでも、もっと生きられる運命が急にちぢまったというわけではない。
昨暮同為人  きのうの日暮にはともに生きていたのに、
今旦在鬼録  今朝はもう亡者の名簿に名を連ねている。
・・・      ・・・
(語釈)
「非命促」 「命」は、生命でなく運命。その人に与えられた運命が短縮されたというわけではない。死が必然である限り、何時死のうと、それがその人に与えられた運命なのであって、もっと生きるべく決められた運命が急にちぢまったのではない、という意味。

死について書かれているものの、この挽歌詩はおそらく死期が迫ってからの晩年の作ではなく、まだ死が現実として迫ってきていない時期の作と考えられている。
小川環樹教授は、「挽歌の詩」について、「私が久しく抱いていた疑問は、淵明がこの詩をほんとうに死が迫ったとき、わが国でいう「辞世」のようなつもりで書いたものだろうかということであった。淵明はこの詩だけで死の問題をとりあつかっているのでないからである。」と言っている。さらに、若い時の作品であるとすれば、「自分が現在おかれている場所から、いちおう引き離し、別に設定された状況の中で、組みたてた想像を語るということは、なにも淵明にかぎらない。詩あるいは文学というものはもともとそのようなものかも知れない。もしそれを虚構だというならば、そのような虚構は、詩人としての淵明の誠実さを少しもそこなうものではない」とも言っている。
若い時に死という虚構に直面したことがその後の彼の詩を深い味いのあるものにしているのではないだろうか。

後世へ大きな影響
ピカソ陶淵明、時代も場所も全く異なる二人に共通しているのは、若い時に、自らが直接死の危険にさらされたり、近しい家族や友人の死があったと訳ではなく、また彼らが取り組んだ芸術のジャンルに死をテーマにした先例はない。陶淵明の場合は当時の挽歌はあくまで他者の死を悼む葬送の詩であって自らの死ではない。
彼らに共通するのは、死に関する意識が外的な環境によるものではなく、全く内的な自発性に依存するものであるということである。それをモチーフにした作品を残し、それをベースとして、芸術活動を展開し、後世に大きな影響を生み出しているという点である。20世紀初頭にキュビスムを創始したピカソがその後の芸術に大きな影響を与えたことはいうまでもない。
 一方、陶淵明の文学は「生と死」の問題などさまざまな点で時代を超えた文学がでありこのため、同時代にはあまり知られておらず、後世の唐代以降広く文学のなかに浸透した。

ヘミングウェイの場合
アメリカの作家ヘミングウェイErnest. Miller. Hemingway(1899-1961)は、ファシズムに対するスペイン内戦時、それを対岸の火事(他人事)として傍観することを潔しとせずに、自ら戦地におもむいた。
その時の作品に、「誰がために鐘は鳴る」がある。
誰がために鐘は鳴る」という言葉は、イギリスで17世紀に農民運動を指導した詩人ジョン・ダンの詩にある言葉である。農民の団結(領主の圧制や囲い込みなどでひとりの農民が犠牲になったらそれは、農民全体の問題である、という詩でこれには他人の不幸に対する無関心への戒め、の意味が込められている。詩の最後の部分は、

だれの死も、私のそれ(死)にひとしい、
私もまた人類の一部であるから、
ゆえに人をつかわして
誰がために(誰の葬らいのために教会の)鐘は鳴っているのかと、
問うことをやめよ、
鐘は汝自身のために鳴っているのだ

で終わっている。
全ての人間はつながっている。したがって一人の死は他者の死でもある。そして一人の生は他者の生でもある。一人の精神はその肉体は滅んでも愛という絆で他者の生として生き続ける。

誰がために鐘は鳴る」はパラマウントで映画化された。自由のために戦う兵士ロバート・ジョーダン役のゲーリー・クーパーは死を決して作戦に赴くときに恋人のマリア役イングリッド・バークマンを抱きしめ、
“君の中に僕は生きている”という。
ヘミングウェイは“君の中に僕は生きている”という言葉でそこに生が受け継がれるという希望があることを明らかにした。

永遠の生
死はそれですべてが終わるのではない。
ピカソは、「科学と恩寵」で、今死につつある若い母を前にして、何も分からない幼児おそらくその母親の子供が描かれている。テーマは悲痛であるがピカソは母親の命が子供へと受け継がれていくことを描きたかったのではないだろうか。母親は子供の中に生きていく、そこに命の継承を見出そうとしているのではないだろうか。

本作品においても、作者はそこに救いを見出そうとしていたのではないだろうか。

“忘れないで ずっと
あなたの中に 生き続けるわ“

一人の人間が死んでも、その人と愛し合った人間の中に生じたその人は、生き続ける。あなたの存在は。愛し合った人を通じて、あなたの死後もこの世界に残り続ける。
そこに救いを見出そうとしている。

これは、本作品のみならず、作者がその活動を通じて一貫して言いたかったことであり、その根底にある愛を通じて多くの人の心の中に生き続け、時代を超えて永遠の命を保っていくと思われる。

以上