揺れる想い
作詞;坂井泉水 作曲:織田哲郎 編曲:明石昌夫
初収録:8thシングル(1993年5月19日発売)
タイアップ:大塚製薬ポカリスエットCMソング

歌詞(CD&DVDCOLLCTION03)
揺れる想い体じゅう感じて
君と歩き続けたい in your dream

夏が忍び足で 近づくよ
きらめく波が 砂浜潤して
こだわってた周囲(まわり)を すべて捨てて
今 あなたに決めたの

こんな自分に合う人はもう
いないと半分あきらめてた

揺れる想い体じゅう感じて
このままずっとそばにいたい
青く澄んだあの空のような
君と歩き続けたい in your dream

好きと合図を送る 瞳の奥
覗いてみる振りして キスをした
すべてを見せるのが 怖いから
やさしさから逃げてたの

運命の出逢い 確かね こんなに
自分が 変わってくなんて

揺れる想い体じゅう感じて
このままずっとそばにいたい
いくつ淋しい季節が来ても
ときめき 抱きしめていたい in my dream

揺れる想い体じゅう感じて
このままずっとそばにいたい
青く澄んだあの空のような
君と歩き続けたい in our dream


心の軌跡を描く
作者の全ての作品に共通することだが、本作品も実際に起きた出来事を具体的に述べるというよりは、それから生じる内面の世界を描いている。内面の世界、心の世界であるが故に、時間はしばしば前後し、空間は必ずしも特定されない。ストーリーの中の時間や空間の視点は複雑に変化し、交錯し、絡み合う。

このため、使われている言葉や視点は非連続となり、一貫したストーリーがなく、脈絡のない世界の積み重ねの様に感じられる時もある。

しかし、聴く側にとっては、その非連続性の間に生じる余韻を感じたり、あるいはその間をつなぐように想像力をはたらかせそれぞれのストーリーを思い描くことにより、ひとつのストーリーとして統一して鑑賞することになり、作品の世界は大きく広がることになる。、

作者の作品が時代を超えて愛されるのはいつの時代においても、聴く人それぞれが独自のストーリーを創作できることがその要因の一つであると思われる。

内面の世界に由来する想いからうまれてきたものなので、使われている言葉は、様々な意味を包含しており、様々な解釈が可能であるが、ふだん使っている日常の言葉が多く用いられているため、聴く人の心に素直に入っていき、その心の中に、様々な反響を呼び起こす。

作者はこれらの日常の言葉を、丁寧に選び、様々に組合せることにより、心の世界における人と人との関係を、愛の形を、心の軌跡を歌い上げている。
それを見てみたいと思う。

詞の世界
夏がすぐそばまで来ていることにはっと気づく。忍び足、と擬人化することにより、夏の訪れに対する突然の気づきを表現していると同時に自分の心の中にも夏が訪れてきたたことに気づく。光を反射して“きらめく波”が“砂浜潤す”という初夏の海辺のさわやかな光景を冒頭にもってくることにより、この歌全体のさわやかなイメージが生み出されている。

こんな自分に合う人はもういないと半分あきらめてた、にも拘わらず、周囲の人々の反対を押し切ってまで、何故、“今 あなたに決めた”のか?

「他人の期待に反して行為するということは考えられるよりも遥かに困難である。時には人々の期待に全く反して行動する勇気をもたねばならぬ。世間が期待する通りになろうとする人は遂に自分を発見しないでしまうことが多い。」(三木清 「人生論ノート」)

主人公は、まさに自分の心に夏が訪れていることを、あなたを愛しはじめていることを発見した。自分の気持ちに正直であろうとするため、人々の期待、世間の期待に反してでも勇気を持って行動することを決めた。それは平坦な道ではない。 “体じゅう感じてという身体的感覚で表わされているのは、様々に思い悩み、微妙に揺れ動く心でもある。

きらめく波が砂浜を潤すという光景から引き起こされた自分の中の世界を見つめていた視線はここで再び外部に向けられる。海と砂浜から一気に夏の青い空へと広がっていく。爽やかな初夏の海と空、それは、君と歩き続けることにより、新たに広がる世界を象徴している。

夏の海と空に向いていた視線は一転して瞳に向かう。主人公は、恋人の瞳が、好きと合図を送っていることに気づく。

「愛されることを熱烈に求めているから、すぐそれに気づき、愛してくれる人の目にそれを感知する。なぜなら、目は心の通訳者であるから。だが、目の言葉がわかるのは、それに関心を持つ人だけである。」(パスカル 「愛の情念について」)

「わたしの眼を覗きこんで! あなたの美しい姿がそこに宿っている、ではなぜ唇に唇を合せないの? 目に目が会っているのに。」(シェイクスピア「ヴィーナスとアドゥニス」)

運命の出逢いとは、愛する対象がはじめから決まっていて、それと出逢うということではない。
季節が移って夏が来ていることに気づいたように、自分の心も変わっていることに初めて気づく。単なる出逢いに過ぎなかったものが、運命の出逢いに変わる。

主人公は、季節が移り変わっていくように心の有り様も移り変わっていくことを、高まった想いも、いつか秋の冷気が忍びより寒い冬が、淋しい季節が巡って来ることを知っている。
それでも、今感じているときめきを、今感じている愛をいつまでも忘れないでいたいと思う。

「淋しく感ずるが故に我あり
淋しみは存在の根本
淋しみは美の本願なり
美は永劫の象徴」
西脇順三郎 「旅人かへらず」より)

詩人が淋しさの中に永遠の美を見出だしたように、作者は淋しさの中に永遠の愛を見出だしたのではないだろうか。

最後に
本作品はポカリスエットのコマーシャルソングとして作られたものであるが、爽やかな夏、さまざまな困難を乗り越えていく恋、未来へのおののきや不安、それを受け入れて永遠の愛の道を進む決意を、さりげない言葉の中に見事に表しており、シェイクスピアの最も有名な詩を思い起こさせるかのようである。

きみを夏の日にくらべても
きみはもっと美しくもっとおだやかだ
はげしい風は五月のいとしい蕾をふるわせ
また夏の季節はあまりにも短い命

時には天の眼はあまりにも暑く照りつけ
その黄金の顔色は幾度も暗くなる
美しいものもいつかは衰える
偶然か自然の成り行きで美は刈り取られる

だが、きみの永遠の夏は色あせることはない
きみがもっている美はなくなることはない
死もその影にきみが迷い込んだと自慢はできない
きみは生命の系譜の中で永遠と合体するからだ

  人間が呼吸できるかぎり その眼がみえるかぎり
  この一篇の詩は生き残り きみに生命を与えつづける

シェイクスピア詩集より18番」(関口篤訳)

以上